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[特集]

ウクライナの戦地に留まったベトナム人の300日【後編】

2023/01/08 10:06 JST更新

(C) dantri
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 ロシアによるウクライナ侵攻が始まって300日余りが経った。ウクライナ在住のチン・アイン・トゥアンさん(男性・54歳)は、戦争が勃発して以来、ウクライナから退避していない数少ないベトナム人の1人だ。トゥアンさんは今もなお、ウクライナ人の妻と2人の子供とハルキウ(首都キーウに次いで2番目に大きい都市)に留まっている。


前編はこちら


 トゥアンさんによると、ハルキウの市場や学校、病院、マンションなどが毎日のように攻撃を受けていた時期があったという。自分の店がある市場のすぐ近くで爆発を目撃したこともある。爆発が起きた3月17日の光景は、今でも脳裏に焼きついている。

 「あの日、我々夫妻が市場の自分の店に座っていると、とてつもなく大きな爆発音が聞こえました。私たちは急いで店を閉め、走って車を取りに行きました。外に出ると、爆発が起きた場所は市場のすぐ近くにあるバス停だということがわかりました。そのとき、ドー・ティ・バオさんというベトナム人の知人を探すため、私たちはすぐには家に帰らなかったんです」とトゥアンさんは語る。

 当時の周囲の光景は混とんとしており、人々があちらへこちらへと行き交っていた。叫び声と泣き声が響き渡り、道路には重傷を負った人たちが横たわり、さらにその隣には焼け焦げた死体もあった。その光景を目の当たりにしたトゥアンさんと妻は、心底震え上がった。

 トゥアンさん夫妻が探していたバオさんは電話もつながらず、バオさんの店に行っても誰もいなかった。夫妻は命を危険にさらしながらもバオさんを探し、無事を祈った。そして、地下鉄でようやくバオさんと再会することができた。3人は抱き合い、すぐに危険なエリアを離れた。

 戦争が勃発してからも、トゥアンさんは可能な限り普段通りの生活を送ろうとしてきた。毎日状況を確認し、さほど危険ではないと判断すれば、市場にも出かけて店を開いた。最初の頃、地元の人々はトゥアンさんの姿を見て驚いた。周りのベトナム人のほとんどが店を閉めて退避したからだ。トゥアンさんはこう語る。

 「あのころ、私が外に出ていたのは、仕事のためだけではなく、他のベトナム人の同胞たちを助けるためでもあったんです。多くの同胞が退避しましたが、それでも私に電話がかかってきて、彼らの店の在庫の配達や、注文済みの仕入れの受け取り、それから店が無事かどうかの確認なんかを頼まれていたんです。彼らの店を確認しに行って、市場ごと燃えてしまっていたこともあります。いったいどれだけの財産が失われたことか」。

 そして4月ごろから、トゥアンさんは定期的に店を開くようになった。ただし、取引はたまにしかなく、お客さんの数も多くなかった。ときどき、遠方から注文を受け、直接手渡すか、梱包して郵便局から郵送した。

 商売は途切れ、収入もわずかになってしまったが、トゥアンさんは家の貯金を使って慈善活動に積極的に参加した。ウクライナに留まったトゥアンさんと何人かのベトナム人は、ポーランド在住ベトナム人のコミュニティとつながっていた。

 ポーランド在住ベトナム人のコミュニティは、戦争が勃発して以来、ウクライナ在住者にたくさんの物資を寄付していた。トゥアンさんたちのグループは、物資を受け取って仕分けし、ビニール袋に詰めて、都市部や郊外にいる人々や兵士たちに配って回った。毎回、配る数は500~600個に上った。

 物資を配送するトラックのレンタル代やガソリン代は、すべてトゥアンさんが負担した。トゥアンさんはこれを、戦争の中でウクライナの人々に寄りそうためのささやかな方法だと考えていた。その後、知人たちが費用を少しずつ寄付したり、車を手配したりと助けてくれるようになった。

 慈善活動に出かける道は依然として危険だった。ウクライナ軍の兵士もより安全なルートを教えてくれるものの、彼らにもいつロシアから攻撃されるかなど知るすべもなかった。グループのメンバーは、慈善活動に参加すると決めても一度行けば戻ってこられるかわからないと躊躇した。

 それでもトゥアンさんは、物資を受け取るために長い列を作って待っていた人々や、子供たちが戦争に行ってしまい、気にかけてくれる人がいなくなり、物資を受け取って泣き出した人々のことを思い出し、自分たちのやっていることには意義があるのだと改めて感じたという。

 トゥアンさんは、慈善活動に出かけるたび、荒廃した風景を見ては悲しくなり、ますます戦争の激しさを感じた。

 ハリコフの現在の状況について、トゥアンさんはこう話す。「今はとりあえず落ち着いています。爆発音は遠くから聞こえるだけで、以前のように地下のシェルターに避難することはなくなりました。私の家族は、戦争の前と同じとまではいきませんが、困窮するほどではありません。食糧もあり、往来もできています。子供は学校に行くことはできませんが、オンラインで授業を受けられますし、インターネットも使えるので、最新の情報も入手できます。それでも、戦争はまだ続いていて、常に危険は潜んでいます。いつ都市がまた攻撃を受けるかもわからないので、一瞬たりとも安心できるときはありません」。

 トゥアンさんによると、地元当局は電気や水道に問題が発生すれば迅速かつ献身的に対応してくれるため、大いに助かっているという。

 今の一番の願いは何かと聞かれたトゥアンさんは、即座に「平和です!」と答えた。トゥアンさんは素早く「平和」という単語を発したが、戦地に留まり、死傷者を目の当たりにしてきた彼は、平和という言葉を口にして、息を詰まらせ、目には涙を浮かべていた。

 「戦争でたくさんのものが失われましたが、一番大きいのは、多くの家族がばらばらになったことです。私の知人も、何人もいなくなりました。前日に電話で話をしたのに、次の日には電話に出られなくなった人もいます。戦地に赴いてたったの2週間で犠牲になった兵士だっています。それに、たくさんの若いロシア人兵士もここで命を落としているんです。こんな状況の中でも、私の家族は全員が揃っていることを、幸運に感じています」とトゥアンさんは語った。 

[Dan Tri 26/12/2022, A]
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