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[特集]

クアンナム省チャーキエウ遺跡と日本人考古学者の30年間

2024/03/17 10:03 JST更新

(C) 山形眞理子
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(C) 吉田泰幸
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(C) 石井彩子
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 チャンパ王国は、2世紀末から15世紀後半ごろまでベトナム中~南部の沿岸地方に存在した初期国家だ。南中部沿岸地方のダナン市とクアンナム省の地域は同王国の初期の中心地で、聖地ミーソン・港市ホイアン・王都チャーキエウ(チャーキュウ)の3か所を中心として栄えたとされている。

 クアンナム省にあるチャーキエウ遺跡に魅了され、自身の研究の方向性を変え、クアンナム省の地と、この地の人々とともに人生の旅路を歩んできた日本人考古学者がいる。

 山形眞理子氏が、ロンドン大学の故イアン・グラバー博士率いる調査隊のメンバーとしてチャーキエウを初めて訪れたのは、1993年の春のことだ。

 ブウチャウの丘の上に位置するチャーキエウを初めて訪れた山形氏は、日本の縄文土器に関する博士論文を執筆中ではあったが、チャーキエウを今後の研究の対象にすることに決めた。

 山形氏は現在、立教大学の特任教授であり、日本の東南アジア考古学会の会長(2020~2023年度任期)を務める。

 過去30年間にわたり、山形氏はチャーキエウの調査に多くの時間を捧げ、そしてベトナムと日本の若手研究者たちをつなぎ、指導を行ってきた。

異なる見解

 山形氏たちがチャーキエウを訪れる以前にも、長きにわたり多くの研究者たちがこの地について考古学の調査と研究を行ってきた。しかしながら、チャーキエウの年代や位置付けに関しては、依然として多くの異なる見解があった。

 フランス植民地時代にフランス極東学院(EFEO)のフランス人研究者たちが行った調査・研究に関して言えば、ルイ・フィノ(1904年)はチャーキエウについて「古都シンハプラ(サンスクリット語)の可能性」を示唆した。

 レオナール・オールソー(1914年)は「林邑(中国の歴史書にあらわれるチャンパの名称)の都であり、紀元後5世紀に中国の軍隊によって略奪された都市」だとした。一方、アンリ・マスペロ(1924年)は、日南郡象林県(中国・漢の南端、林邑はここから独立)の所在地について懐疑的であり、林邑はチャーキエウではなく、北中部地方トゥアティエン・フエ省にあったとした。

 オールソーとジャン=イヴ・クレイは、1927年から1928年にかけて行ったチャーキエウの発掘調査の後、「チャーキエウこそ林邑の都であると同時に、中国・漢の支配下にあった象林県の中心地でもあった」との見解を示した。

 しかし、1947年になると、シュタインは中国の史料に基づいてオールソーとクレイの研究結果を否定し、林邑はハイバン峠(トゥアティエン・フエ省とダナン市の間に位置する峠)の北にあったとした。

 その後、ベトナム人による調査・研究も行われるようになった。1985年、ハノイ市の大学の調査隊は、チャーキエウの地で紀元後およそ2世紀末から4世紀初頭のものとみられる、サーフィン文化(紀元前500年もしくは300年頃から紀元後100年頃にかけてベトナム中部を中心に分布した鉄器時代の文化)の末期とチャンパの初期の土器の破片を発見したと報告した。また、サーフィン文化に関係する他の痕跡も見つかった。

 ベトナム人、英国人、そして山形氏ら日本人の考古学者から成る調査隊は、1993年から1996年にかけてチャーキエウで発掘調査を行った。先行研究の結果を踏まえながら、調査隊は注目すべきさまざまな問題を提起していった。

 クレイは、EFEOで最も優秀な考古学者だったことは間違いないが、フランス植民地時代にチャーキエウで行われた最初の大規模かつ複数の地点での考古学調査・研究においては、チャーキエウから多数出土する遺物としての土器や瓦にはあまり目が向けられなかった。

 こうした中、山形氏も参加したこの調査隊は、出土土器の年代を見極めること、そしてサーフィン文化とチャンパの関係性を考察することを目的に据えたのだった。山形氏はまた、チャーキエウの年代と遺跡の変遷、さらにチャーキエウの地に人々が定住したのはいつからなのか、林邑とチャンパにはどのような関係があったのかということにも関心があった。

発掘調査からわかったこと

 1993年、山形氏を含めた調査隊は、発掘調査で非常に重要な遺物を多数発見した。多くの遺物は中国南部やベトナム北部でみられる漢代の土器と関係していたほか、遺跡から出土した炭化物を分析したところ紀元後1~3世紀という年代が出た。

 さらに注目すべきは、調査隊が1997年から2000年にかけてチャーキエウのホアンチャウ地点で行った発掘調査で、山形氏は下層から上層までの土層中に含まれる一連の遺物を特定することに成功した。これにより、考古学的な観点からみたチャーキエウの古代の歴史に光が当てられることとなった。

 山形氏は、その後もほぼ毎年チャーキエウを訪れ、踏査や発掘調査を続けた。また、チャーキエウだけでなく、比較対象として他のさらに古い遺跡の調査・研究も進めた。山形氏は自身の考えについてこう語る。

 「チャーキエウは林邑の都であり、サーフィン文化から初期国家(チャンパ)への変遷のプロセスは、中部地方の他の地域よりも先に、クアンナム省とダナン市の地域で生じた可能性があると考えています。チャーキエウの考古学的な年代の枠組みを構築することは、北中部地方と南中部地方に存在する林邑の関連遺跡との比較研究においては不可欠であり、これはまた、考古学的な観点と方向性から林邑の歴史を見直すことにもつながります」。

 山形氏らの考古学調査・研究の成果としての重要な遺物の数々は、クアンナム省ズイスエン郡にあるサーフィン・チャンパ文化博物館に展示されている。これらの研究成果は、ベトナムと日本をはじめ、世界各国の学術雑誌に論文が掲載されているほか、出版もされている。

土地への愛と人への愛

 研究において重要な功績を残してきた山形氏は、ベトナムの多くの友人や考古学者の仲間たちからサポートを受けてきた。特に、チャーキエウが位置するクアンナム省ズイスエン郡の地元住民との縁も深い。

 中でも、ベトナム人女性考古学者の故グエン・キム・ズン氏は、山形氏がチャーキエウに関わるようになってから30年間にわたり山形氏をサポートし続け、2人は共に調査・研究を行い、固い絆で結ばれていた。

 山形氏いわく、これまでにたくさんの土地を訪れてきたが、その中でもズイスエンの人々、そしてクアンナムの人々の大きな愛情が心に残っているという。

 ズイスエン郡文化スポーツ部のズオン・ドゥック・クイ元部長は、山形氏が初めてチャーキエウを訪れたころのことを振り返り、こう語る。

 「先進国からやって来た眞理子にとって、インフラも整っていない環境での仕事はさぞかし大変だったことでしょう。でも、彼女はそんな環境をも乗り越えました。眞理子はベトナム語を聞くのも話すのもとても上手ですし、仕事をするときの彼女は信条があり、律儀で素朴で、誰からも本当に愛される、そんな人です」。

 過去30年間に山形氏は、チャーキエウの初期の年代の枠組みを構築したほか、チャーキエウが林邑の都であったこと、サーフィン文化から初期国家への変遷のプロセス、さらには他の文化との比較研究を通じてチャーキエウの地域とベトナム中部・北部の他の地域との関係性を明らかにするなど、大きな功績を残してきた。

 それだけではない。山形氏は、ベトナムと日本の若手研究者たちをつなぎ、指導を行ってきた。このように、情熱に溢れ、素朴で思慮深い山形氏は、クアンナム省の地に重要な貢献をしてきた考古学者の1人となっている。 

[Bao Quang Nam 09:13 15/02/2024, A]
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