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[特集]

90歳のフォー屋店主、サイゴンでハノイの味を守って67年

2014/11/23 06:57 JST更新

(C) vnexpress, カオバンのフォー
(C) vnexpress, カオバンのフォー
(C) vnexpress, カオバン店主フォンさん
(C) vnexpress, カオバン店主フォンさん
 ホーチミン市1区のマックディンチ通りに、御歳90歳の店主が営むフォー屋「カオバン(Cao Van)」がある。ハノイ出身の店主チャン・バン・フォンさんは、僅か6歳の頃からフォーを売り始めた。  カオバンは、質素な店にもかかわらずフォー1杯が4万VND(約220円)からと比較的高い。他のフォー屋が遅くとも朝5時には仕込みを始めるのに、カオバンは8時になってようやく開店準備にとりかかるのだが、開店と同時に常連客がひっきりなしに訪れる。ホーチミン市でハノイの伝統的な味を守り続けて60年、こんな店は他にないからだ。  紅河デルタ地方ハナム省の貧しい家に生まれたフォンさんは、6歳の頃から兄についてハノイ市へ出て、フォーを売り始めた。それが1930年頃のこと。「金がなくて、いつもすきっ腹を抱えてたよ」とフォンさん。当時は麺の上に肉と調味料を載せた丼を客に渡して、客が自分でスープをよそうスタイルだったそうだ。  毎日朝から晩まで売り続けても、儲けはごく僅か。ベトナムが独立を宣言した1945年、フォンさんはサイゴンから戻ってきた友人から「南部のほうが稼げる」という話を聞く。貧困から逃れるため、1947年に意を決して南へと下った。

 サイゴンに来たフォンさんは当初、アイスキャンディーの行商で生計を立てたり、土地を借りてバナナを栽培したりしていたが、生活は楽にならなかったため、勝手を知るフォーの屋台を引くことにした。  「通りにフォーの立て看板を出すと、みんな走って食べに来たものさ」とフォンさんは懐かしそうに振り返る。5年間屋台を引いて貯めた金で、1952年にチャンカオバン通りで100m2ほどの店を構えることができた。この通りの名をとって店の名を「カオバン」にした。  ところが、1961年に立ち退かねばならなくなり、マックディンチ通りに店を移した。ベトナム戦争が始まる直前のことだ。「その頃は日に50~60杯は売れたね。客は店の外まで行列を作って、家族総出で働いたよ」。  売上が良くなると店舗の貸主が何かにつけて金を取ろうとしたが、倹約に倹約を重ねて金を貯め、店舗を買取ることができたという。ベトナム戦争中は、米国人による営業妨害も度々あったそうだが、「優先してたらふく食べさせてやるようにしたら、そのうち嫌がらせはなくなったよ」と打ち明けた。

 店が軌道に乗り、すべてが順調に思われたが、ベトナム戦争が終結すると景気が一気に悪くなり、閉店せざるを得なくなってしまった。そして、生きるために妻と息子は海外へ脱出する。「もちろん、妻と息子は一緒に行こうと何度も説得してきたが、私はこの地に愛着がある。英語も話せないし、移住したとしても何の仕事もできなかったろうよ」。  1980年になってようやく、以前と同じマックディンチ通りで店の再開に漕ぎ着け、現在に至る。今は6人のスタッフを雇い、高齢になったフォンさんは味のチェックと帳簿付けだけをやっているという。直接調理には手を出さなくなったが、伝統の味を守るためのこだわりは変わらない。今でも店にはガスがなく、薪を焚いて調理しており、これがスープに格段のコクを生み出すのだという。  「牛肉は新鮮なのはもちろん、よそに比べて2倍も高い牛肉を使っているんだ。だからサイゴンっ子だけじゃなく、米国に住んでいるベトナム人も帰国するたびによく立ち寄るよ」。いつまでも変わらない味と職人魂が、客の心を引き付ける。  「6人の子どもたちは今、アメリカとオーストラリアに住んで安定した仕事に就いているが、私は自分の収入だけで何とかなってるよ」とフォンさん。「これまでの人生で今が一番幸せ。人生の最後まで悔いのないよう働きたい」と、この先も子供たちに面倒を見てもらうつもりはないようだ。 

[Thi Ha, VNexpress 9/10/2014 | 05:00 GMT+7 S]
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