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[特集]

ベトナム女性を美しく飾る「アオザイ」、その歴史と変遷

2016/03/13 05:52 JST更新

 アオザイ(Ao dai)は、丈の長い上衣と長ズボンがセットになったベトナムの伝統的な民族衣装だ。結婚式や誕生日、祭りなど普段の生活の重要なイベントで着られるほか、女子生徒の制服として純白のアオザイを採用している学校もある。















 アオザイはどの時代においてもベトナムの文化的シンボルとして考えられてきた。しかし、この伝統的な衣装が今から約4000年も昔に現れ、幾多の変遷を経てきたということはあまり知られていない。















紀元前2000年~紀元200年:ドンソン銅鼓に描かれたアオザイ















 文化研究者たちによれば、紀元前700年ごろから紀元100年ごろまでベトナム北部の紅河デルタを中心に発展した青銅器時代のドンソン(Dong Son)文化の頃、古代ベトナム人は裾が前後2枚ずつ、計4枚に分かれたアオザイを着ていたようだ。これは、ドンソン文化の代表的な祭祀遺物である銅鼓の文様に描かれている。















 このタイプのアオザイは、紀元前2000年から紀元200年までの長きにわたり、女性によって広く着用されていた。この時代のアオザイはまだ中国文化の影響を受けておらず、銅鼓に描かれたパターンをみると現代のアオザイに通じる特徴もある。































11~15世紀:複数枚を重ねたアオザイ















 ベトナムは、李(リー)朝(1009~1225年)時代に中国の支配を受けたため、アオザイは部分的に中国文化の影響を受けるようになった。北部の寒い気候のためか、3~5枚重ねとなり、スカーフなどの装飾品も活用された。この時代のアオザイに共通する特徴は、袖が長く大きく広がっている点だった。















 その後、陳(チャン)朝(1225~1400年)を経て16~18世紀になっても複数枚の布を重ねたアオザイが受け継がれたが、全体的により軽く、エレガントな印象になっていった。































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15~18世紀:4枚の布を垂らしたアオザイ















 黎(レ)朝(1428~1527年、1532~1789年)時代には服装が大きく変化し、それまでのスタイルとは全く異なるものとなった。















 この時代のアオザイは4枚の布を垂らした「4つ身」のようなデザインだったが、前側の2枚の布を結んで着用することはなかった。このスタイルのアオザイは、女性にとって農作業や日常の活動にも適しており、特に1年中働く田舎の女性が好んで着用した。































18世紀~20世紀前半:現代につながる新たなアオザイ















 広南国(こうなんこく)(1558~1777年)の第8代君主グエン・フック・コアット(Nguyen Phuc Khoat=阮福濶、在位1738~1765年)は、今日のアオザイの原型を整えた人物とされている。















 数万人にも及ぶ中国系民族の移入に直面した彼は、ベトナムの文化的アイデンティティを保持するため、全ての人々に対して服装に関する勅令を発布した。この勅令によって初めて男性と女性の両方のアオザイの基本的な形が決まり、今日のアオザイと似た形となった。そして、阮福濶の統治時代にアオザイが民族衣装として正式に認められることとなった。















 現代的なアオザイの形は、1939年に画家のカット・トゥオン(Cat Tuong)がデザインしたアオザイ「ル・ミュール(Le Mur)」に始まる。「ル・ミュール」は伝統的なアオザイとは異なり、体のラインに沿ってくびれを作り、袖や襟にはヨーロッパ風のディテールを取り入れた。















 しかし、この「ハイブリッド」なアオザイは、下品だとして当時の世論で強く非難され、モダンなスタイルを好むアーティストが着用するだけだった。そして、1943年までにこのスタイルは徐々に忘れ去られていった。



















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20世紀後半~現在:ファッションとしてのアオザイ



 1960年代は、サイゴン(現在のホーチミン市)でラグラン袖のアオザイが考案された。ラグラン袖のアオザイは、袖を首から脇まで斜めに縫い合わせ、つなぎ目に沿ってボタンを配する。この形にすることで脇の下のしわを最小限に抑えるほか、布を身体の曲線にぴったりと沿わせながらも腕を快適に動かすことができる。



 これ以降、ベトナムのアオザイはラグラン袖が主流となり、現代のデザインが形作られていった。



 1960年代初頭には、ベトナム共和国(南ベトナム)初代大統領ゴ・ディン・ジエム(Ngo Dinh Diem)の実弟で大統領顧問を務めていたゴ・ディン・ニュー(Ngo Dinh Nhu)の妻、マダム・ニュー(マダム・ヌーまたはマダム・ゴ・ティン・ヌー、本名:チャン・レ・スアン=Tran Le Xuan)が、襟元の大きく開いた丸首やボートネックのデザインのアオザイを考案した。当時は伝統や公序良俗に反するという理由で批判されたが、現在では熱帯気候に適した快適さから人気を集めている。















 1960年代にはさらに、ファッション性が高いとして裾の長い伝統的なアオザイが評価されるようになった。この頃、オープンな考え方を持った都市部の女性たちは、ウエストをタイトに絞ったアオザイを着て身体の曲線を強調するため、ブラジャーを着用するようになった。















 1960年代の終わり頃には、便利さと快適さから上衣の丈の短い「ミニアオザイ」が女子生徒たちの間で流行した。上衣の裾は幅が狭く膝丈で、身頃はウエストが詰まっていないものの身体のラインに沿って縫われていた。















 1970年代以降、生活の大きな変化に伴い、アオザイを街中で見かけることは徐々に減っていった。しかし、2000年からは、ボー・ベト・チュン(Vo Viet Chung)やシー・ホアン(Si Hoang)、トゥアン・ベト(Thuan Viet)といったデザイナーたちが様々なデザインや素材のアオザイコレクションを生み出し、アオザイが再び注目を集めるようになった。最近ではジーンズと合わせるアオザイなども考案されている。















 ミスコンなどの国際的な美の祭典では、ベトナム代表が身につける衣装として常にアオザイが第一候補に挙がる。2014年にはホーチミン市9区に「アオザイ博物館」がオープンし、同市では毎年「アオザイフェスティバル」が開かれるなど、この民族衣装の伝統を守る動きが活発になっている。































最終更新:2019年8月23日 13:20 JST 

[Thanh Van, Vietnamnet, 08:00 | 28/02/2016, K]
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