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[特集]

フランス植民地時代から今に残るホーチミンの5つの「大通り」

2018/08/26 05:17 JST更新

 フランス植民地時代にフランス人が策定したサイゴン(現ホーチミン市)の都市計画では、道幅40m、歩道幅4m、両側に2列の街路樹のある通りを「大通り(ベトナム語:Dai lo、フランス語:Boulevard)」としていた。

 フランスがサイゴンを占領した後、フランス人のコフィン工兵中佐が、後に「50万人のサイゴン」とされる都市計画の策定を任された。

 コフィン工兵中佐の計画概要では、ベンゲー運河(Ben Nghe)とティゲー運河(Thi Nghe)、サイゴン川、そして現在のホンバン通り(Hong Bang)とグエンティニョー通り(Nguyen Thi Nho)の元になった通り(現存しない)を境界とする、面積25km2の都市にすることとした。

 主要な通りについては、道幅40m、歩道幅4m、両側に各2列の街路樹のあるものを「第1類(大通り)」、道幅20m、歩道幅2m、両側に各1列の街路樹のあるのものを「第2類(通り=ベトナム語:Duong、フランス語:Rue)」と定めた。

 このうち、サイゴンで最初にできた大通りは、◇グエンフエ大通り(Nguyen Hue)、◇レロイ大通り(Le Loi)、◇ハムギー大通り(Ham Nghi)、◇レズアン大通り(Le Duan)、◇トンドゥックタン大通り(Ton Duc Thang)の5つだった。


グエンフエ大通り(Nguyen Hue)

 フランス植民地時代の名称はシャルネ通り(Charner)。全長0.7kmで、現在のホーチミン市人民委員会庁舎からサイゴン川岸まで伸びる。フランスがサイゴンを占領したころ、ここはまだ運河だった。

 1865年に運河の一部が、20年後には全てが埋め立てられ、シャルネ通りまたはキンラップ通り(Kinh Lap)と呼ばれる大通りが建設された。

 1955年から現在に至るまで、この通りはグエンフエ通りと呼ばれている。長い歴史を経た今もなお、市内で最も賑わう通りの1つとなっている。

 現在のグエンフエ通りは、4300億VND(約20億5000万円)を投じて改修が行われ、全長670m、道幅64m、噴水や街路樹のある歩行者天国の広場となっている。


レロイ大通り(Le Loi)

 フランス植民地時代の名称はボナール通り(Bonnard)。当初はここもフランス人が掘った全長1km近い運河だった。片方の端はサイゴン川につながり、もう片方の端はベンゲー運河に流れ出るオリビエ運河(Olivier)とつながっていた。そして1880年ごろ、通りを建設するため、運河は完全に埋め立てられた。

 1914年にベンタイン市場(Ben Thanh)と市民劇場ができた後、鉄道の駅がハムギー通りから現在のクアックティチャン広場(Quach Thi Trang)に移された。1920年代ごろから自動車が発展し始めると、ボナール通りは他のカティナ通り(Catinat、現在のドンコイ通り(Dong Khoi))やシャルネ通りと比べて経済的に優位な立場にあった。

 1955年からこの通りはレロイ通りと呼ばれるようになり、現在まで多数のブランドショップが立ち並ぶショッピング通りとして知られている。


ハムギー大通り(Ham Nghi)

 この通りも元はカウサウ(Cau Sau)という名の運河で、サイゴン川から現在のハムギー通りとパスツール通り(Pasteur)までを結んでいた。1867年から1868年の間に運河は埋め立てられ、道幅56mのカントン通り(Canton)が建設された。

 1885年、大通り沿いにサイゴンで初めての鉄道が走り始め、日に日にこの通りも賑わいを増していった。大通りを走る鉄道の線路の両側がそれぞれ独立した通りとなっていた時期もあり、フランス提督の名前にちなんで北側の通りはクランツ通り(Krantz)、南側はデュペレ通り(Duperre)と名付けられた。

 1914年、クランツ通りとデュペレ通りはソンム大通り(Somme)という名の1本の通りになり、1955年までにベトナム共和国政府によりハムギー大通りと改名された。ハムギー大通りはトンドゥックタン通りからベンタイン市場前のクアックティチャン広場までの約1kmの長さ。

 ハムギー通りはかつて市内を走る路面電車の始発点だったほか、鉄道の通過点でもあった。最初のサイゴン駅はハムギー通りのバクダン船着場(Bach Dang)近くにあり、その後ベンタイン市場のエリアへ移された。


レズアン大通り(Le Duan)

 サイゴン動植物園から統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)までの約2kmに及ぶこの通りは、サイゴンがフランスに占領される前から存在していた。その後、この通りは新政府の本拠地における中心的な大通りとなった。

 当初、通りの名前はチンフー大通り(Chinh Phu=「政府」の意)だったが、サイゴンを訪れたことのあるカンボジアの国王にちなんでノロドム大通り(Norodom)と改名された。

 1950年、ノロドム会堂がベトナム国のバオダイ政権によりドックラップ(Doc Lap=「独立」の意)会堂と称されるようになり、ノロドム通りもトンニャット通り(Thong Nhat=「統一」の意)と改名された。

 5年後、トンニャット大通りはベトナム共和国政府の政治・外交の中心になり、司令部や外交機関などが多数置かれるようになった。

 1975年以降、ドックラップ(独立)会堂はトンニャット(統一)会堂と改名され、同じくトンニャット通りも4月30日通り(30 thang 4)となった。1986年までに、この大通りはホーチミン市当局により現在のレズアン通りと呼ばれるようになった。

トンドゥックタン大通り(Ton Duc Thang)

 サイゴンで最も大きく最も古い通りで、フランス植民地時代は3つの異なる通りに分かれたいた。1つ目の区間はカインホイ橋(Khanh Hoi)からメーリン広場(Me Linh)まで、2つ目はメーリン広場からバーソン工場(Ba Son)まで、3つ目はサイゴン川岸からグエンティミンカイ通り(Nguyen Thi Minh Khai)までとなっていた。

 1865年、この通りはシタデル大通り(Citadelle)と名付けられ、1901年までにルロ通り(Luro)となり、1955年にはサイゴン政府によりクオンデー大通り(Cuong De)に変わった。

 1980年までに、クオンデー大通りはトンドゥックタン通りとなったが、レズアン通りからグエンティミンカイ通りまでの区間はディンティエンホアン通り(Dinh Tien Hoang)に含まれることとなった。


 その後、都市の発展とともに、ガリエニ大通り(Boulevard Gallieni、現チャンフンダオ通り(Tran Hung Dao))やハノイ大通り(Xa lo Ha Noi)が、さらに時が経ってボーバンキエット通り(Vo Van Kiet)やマイチート通り(Mai Chi Tho)、ファムバンドン通り(Pham Van Dong)などの大通りが次々とできていった。

 しかしながら、サイゴンで最初にできた5つの大通りは現在もホーチミン市中心部の重要な通りとして今も残っている。

 なお、ジュール・ ボワシエール(Jules Boissiere)は1874年に「サイゴンには6の大通り (boulevard)と40の通り(route/rue)がある」と記している。かつては現在のグエンティミンカイ通りにあたるシャスル・ロバ通り(Chasseloup Laubat)も「大通り」に含まれていたためだ。

シャスル・ロバ通りは、中部地方や北部地方へ向かう道であり、現在のカックマンタンタム通り(Cach Mang Thang Tam)につながる道でもあった。しかし、道幅が10m余りだったことから、20世紀初頭のフランスによる地図の多くでは「大通り」から「通り」に格下げされていた。 

[VnExpress 00:00 19/02/2018, A]
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