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[特集]

配給時代の労働者海外派遣と労働者たちの苦難、ソ連での一例

2019/11/24 05:59 JST更新

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 ドイモイ(刷新)前、1976年から1986年ごろのベトナムは、「配給(バオカップ=Bao cap)時代」。当時、家族へ仕送りをするために十分なお金を貯めるということは、「共同労働(資本主義的生産に先行する共同体に支配的な労働形態)」で出稼ぎに行くほとんどの人々に共通のものだった。

 元ベトナム通信社(TTXVN)ロシア支局長のゴ・ザー・ソン氏は、旧ソ連で働くベトナム人の工場の幹部や労働者たちと接触する機会が多く、同胞たちの辛さと心境がよくわかったという。

 2017年に通信(Thong Tan)出版社から発行された配給時代に関する書籍の中でソン氏は、ベトナムは1980年から労働力の輸出を始めたと述べている。これは、2度の戦争で背負った借金を「友人」に返済するためだった。

 当時のベトナムは労働力過剰で仕事が足りないという中、一部の国はベトナムの労働力を受け入れる準備をしていた。ベトナムが戦後の困難から脱するのを助けるというだけでなく、個人を海外に派遣し、母国にいる家族を食べさせていくことができる環境を整えるということでもあった。

 最初の数年間は主に1グループあたり数百人から成る若者たちのグループを派遣し、社会主義各国の工場で高度な技術レベルを必要としない仕事に就かせていた。

 ベトナムとソ連および東欧の社会主義国との間で結ばれていた労働協力協定によれば、ベトナムは毎年1万人もの健康な若年労働者をこれらの国に派遣し働かせることになっていた。

 しかし、全ての若者が健康というわけでもなければ、何らかの分野の知識があるわけでも、共同労働で外国に行きたいという願望があるわけでもない。さらに、希望する派遣先の国に選ばれたければ、様々な条件を満たし、手続きを経なければならない。

 当時の若者に最も人気があった派遣先はドイツで、続いてチェコスロバキア、ソ連、ブルガリアの順だった。理由は経済的利益のためだ。出稼ぎに行くとなれば誰しも賃金のことを考えるし、経済的収入が多ければ仕送りをして家族を助けることができる。

 当時、相当に裕福な家庭だけがドイツのMifaの自転車やMukichのバイクを購入できた。Babetaのバイク、FavoritやEskaの自転車は、多くの家庭にとって夢だった。一方、ソ連へ派遣される労働者は、良くてSaratovの冷蔵庫、それに鍋やアイロン、Kamaのウォーターポンプを持って帰れるかどうか、というところだった。

 ソ連の工場で共同労働に従事するベトナムの若者はかなり多く、ピーク時には10万人にも達した。大部分がモスクワ周辺などの大都市に集中していた。

 外国へ行く準備をしているときは、「向こうに行けば専門的な分野を学ぶことができる」と誰もが信じている。外国で暮らす数年間は、衣食住ともに足り、勤務時間外はあちこちに行って、かつて「地上の天国」と称された地で新しいものを見て感じることができるだろう。そして母国に帰ればお金は十分にあるし、自分の家でも建てよう、と考えるのだ。

 しかし、現実は違った。共同労働で出稼ぎに行く人々は、実質的に雇われた労働者であり、国内を自由に往来する自由などなかった。モスクワや他の都市に遊びに行きたければ、地方当局からビザを取得しなければならなかった。

 しかもこのビザは四半期に1度しか発行されない。工場の幹部は、「ビザという報酬」を掲げてベトナム人労働者たちが競って熱心に働くよう鼓舞した。

 質の高い製品を数多く製造した人は、ボーナスに加えてモスクワ行きのビザをより多い回数、しかも滞在期間も長く取得することができた。モスクワへ行くのは、観光や現地の人との交流、友人作りのためというだけでなく、家族に送るための買い物が最も重要な目的だ。

 長く続いた戦争が終わって数年の間は、ベトナムでは物資が不足し、さらに米国と同盟国によって禁輸が行われていた。そのため、あらゆる必需品や工業製品は配布により得るしかなかった。

 ベトナムでは、外国に出稼ぎに行っている親戚が送ってくれたものは、針や糸、石鹸、かみそりの刃から自転車やバイク、ラジオ、テレビ、冷蔵庫まで、どんなものでも貴重だった。こうした製品はモスクワや他の一部の都市でたくさん売られていたため、共同労働の人々でモスクワに行きたがらない人などいなかった。

 当時、外貨を母国に送金することはできず、稼いだお金は物資に変えて送るしかなかった。1か月の給料は、工場が社会保険や健康保険、家賃を控除した残りを受け取る。勤勉に働いて倹約すれば、毎月家族を助けるために色々な物資を購入するお金を何とか残すことができた。それでも多くの人は苦労した。

 当時の社会主義国は官僚制に従い、競争経済の基礎を築くことなく消費計画に合わせて生産するのみで、商品として生産するわけではなかった。そのため、どんな物かに関係なくたくさん購入する人は好まれなかったが、ベトナム人はあまりにも物が不足していたため、あるものは全て買い占めた。

 こうした状況を制限するため、店は購入者1人あたりの個数制限を設けた。しかしながら、このことがまた、店の従業員とベトナム人の間の秘密の取引という現象を生み出すことになった。多く買えた人は、必要としている人、買えなかった人に転売する。そこからベトナム人コミュニティの「闇市場」が萌芽した。

 物を買えたら、次は母国へ送ることになる。しかし、当時は輸送する物の数が非常に限られていたため、労働の期限が切れて帰国する人に頼んで運んでもらうことしかできなかった。

 そして、労働傷病兵社会省の労働協力局と在ソ連ベトナム大使館の干渉により、ソ連はようやく共同労働として働く労働者に対し、1.2m3の大きさの荷物1箱を毎年1回、海上輸送で母国に送ることに同意した。しかし、ベトナムに到着してもまだ煩雑な手続きがあった。

 1991年にソ連が崩壊し、ロシア経済は大きく混乱し、どの店も空っぽになり、多くの工場が閉鎖された。そして、ベトナム人労働者が帰国するための航空券も補償も何もなかった。

 一部の人々は帰国するためのチケットを買うために必死で節約した。残りの人々は生計を立てるために助け合った。そして、ベトナム人のその勤勉さと我慢強さから、一部の人々は現地での商売に成功し、繁盛させていったのだった。 

[Zing 15:10 15/11/2019, A]
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