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[特集]

170年前に初めて米国へ渡ったベトナム人、チャン・チョン・キエム

2020/11/08 05:15 JST更新

(C) thanhnien
(C) thanhnien
 現在のホーチミン市9区ロンビン街区(phuong Long Binh)に、「チャンチョンキエム(Tran Trong Khiem)通り」がある。この通り名の由来となった人物が、今から170年余り前に初めて米国へ渡ったベトナム人だということを知る人はほとんどいないだろう。

 物語は、阮(グエン)朝(1802~1945年)時代の1842年に始まる。現在の東北部地方フート省ラムタオ郡(huyen Lam Thao)にあたるラムタオ府スアンルン村(lang Xuan Lung, phu Lam Thao)で、チャン・チョン・キエムという名の21歳の男が、重罪を犯した。キエムは、結婚したばかりの妻が該総(村レベルの行政区画の長)に殺害され、復讐のためにその該総を殺害したのだった。

 その後、キエムは現在の北部紅河デルタ地方フンイエン省のフォーヒエン(Pho Hien)に逃げ、外国の商船で働き始めた。これが、キエムの5大陸にまたがる冒険の始まりだった。

 1842年から1854年までの12年間に、キエムは香港、英国、オランダ、フランスと、アジアからヨーロッパまで数多くの土地を旅した。知性を活かし、行く先々で現地の言葉を習得した。1849年、米国のニューオーリンズにたどり着いたキエムは、故郷に帰る手段を見つけるまでの4年間、米国をさすらうこととなった。

 米国に到着したころのキエムは28歳。「レ・キム(Le Kim)」という偽名を使って中国人を装い、ゴールドラッシュに乗じて西部地方で金の採掘集団に参加した。それから2年近くの間、キエムはレ・キムとして西部で本物のカウボーイの生活を送った。

 キエムは、マークというカナダ人が立ち上げた金採掘集団に参加していた。この集団に参加するには、全員が食糧購入費や準備費としてお金を出し合わなければならなかった。キエムは1849年当時の金額で200USDを寄付した。

 キエムは多くの外国語を習得していたため、リーダーのマークの連絡係として、またオランダや中国、フランスなど多国籍なメンバーの通訳係としての役割を担った。

 キエムは皆にベトナム語もできると話したが、それを実際に使う機会はなかった。さらに、自分は中国人ではなく、中国の隣国の出身だということも話した。集団の中でキエムは丁寧で礼儀正しく、親切なことで有名で、皆からも尊敬されていた。

 キエムとメンバーたちは、当時流行していた「おおスザンナ(Oh! Susanna)」を歌いながら進み、ネブラスカの河川を越え、ロッキー山脈を越え、ララミー、ソルトレイクシティに至った。しかし、それは危険な道のりで、彼らはしばしば飢餓の脅威やインディアンの攻撃に直面した。マラリアと毒蛇も、集団の半数以上の命を奪った。

 資金として少しの金(ゴールド)を蓄え、キエムはサンフランシスコに戻った。19世紀半ばのサンフランシスコは、埃っぽく強盗ばかりの街だった。

 機知に富み、アグレッシブでさらに多くの外国語ができることを売りとして、キエムはすぐにアルタ・カリフォルニア(Alta California)やモーニング・ポスト(Morning Post)などの新聞社のフリーランス記者としての仕事を得ることができた。そしてその後、デイリー・イブニング(Daily Evening)の編集者となった。

 キエムは、人種差別の被害者となった金鉱で働く黄色人種の人々に深い同情を示した。デイリー・イブニング紙に掲載されたキエムの記事の多くは、現在もカリフォルニア大学の図書館に保管されている。

 特に、1853年11月8日号には、キエムとジョン・サッター(ゴールドラッシュとの関係や、『サッター砦』で知られる)の対談記事がある。キエムはサンフランシスコに到着したとき、ジョン・サッターに大いに助けられた経緯もあった。ジョン・サッターは歴史の流れの中でサンフランシスコを追われ、精神病を患い、埠頭をさまよって物乞い生活を送り、友人たちからも見捨てられていた。

 キエムはジョン・サッターと再会したとき、200USDを渡すとともに、サンフランシスコの土地を開拓したジョン・サッターに対するサンフランシスコの人々、そして米国の人々の態度を批判した。

 翌1854年、米国での混沌とした生活にうんざりし、さらに故郷への懐かしさに駆られたキエムは、ベトナムへ帰る手段を見つけた。キエムはカウボーイのように馬に乗って銃を撃った最初のベトナム人、そして米国の新聞社の記者を務めた最初のベトナム人となり、米国に自分の足跡を確かに残した。

 1854年、キエムは「レ・キム」を名乗ったままベトナムに帰国した。かつての犯罪による指名手配から逃れるため、故郷には帰らず、「明郷(Minh Huong)人」(中国の清朝への服属を拒否した中華系移民)を自称し、ディントゥオン省(現在の南部メコンデルタ地方ティエンザン省、ベンチェ省、ドンタップ省)で開拓に従事した。

 キエムは開拓を進め、ディントゥオン省タンタイン府ホアアン村(lang Hoa An, phu Tan Thanh, tinh Dinh Tuong、現在のドンタップ省の一部)を設立した。キエムはここでファンという女性と再婚し、2人の息子をもうけた。

 キエムは、1860年に故郷のスアンルン村にいる実兄のチャン・マイン・チー宛てにチュノム(ベトナム語を表記するために漢字を応用して作られた文字)で書き送った手紙の中で、フォーヒエンで乗り込んだ外国の商船から米国での過酷な日々、ベトナムへの帰国、そしてディントゥオン省に居を構えたことまで、自分が経てきた10年間の旅について詳細に語った。

 1860年代に入ってフランスがコーチシナの東部3省と西部3省を占領すると、キエムは家と土地、すべての財産を手放し、当時ドンタップムオイ(Dong Thap Muoi、現在のロンアン省、ティエンザン省、ドンタップ省)でフランス植民地支配に対する蜂起を指導していたボー・ズイ・ズオンに付いて、反乱軍に志願した。

 その後、キエムは1つの軍の指揮を任され、ミーチャー(My Tra、現在のドンタップ省カオライン市)をはじめとする各地で抗戦した。そして1866年、ドゥ・ラ・グランディエール率いるフランス軍の襲撃で反乱軍は倒れたが、キエムは敵に捕らえられることを拒否し、自害した。このころ、キエムは45歳だった。キエムの遺体は、ゴータップ(現在のドンタップ省タップムオイ郡)に埋葬された。 

[Thanh Nien 06:40 06/11/2020, A]
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