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[特集]

乳児期の火傷で顔にケロイド、差別を乗り越え夢のケーキ屋をオープンした男性

2021/11/14 10:33 JST更新

(C) vnexpress
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 顔にケロイドがあるゴ・クイ・ハイさん(男性・27歳)は、10歳のときに聴覚障害を持つ友人の誕生日ケーキを買いにケーキ屋に入ったが、顔が醜いという理由で店から追い出されてしまった。それからというもの、ハイさんはどんなに貧しくてもどんな外見であっても誰でも歓迎する、自分のケーキ屋を開くという夢を持ち続けてきた。

 17年後、ハイさんの故郷である南中部高原地方コントゥム省ゴックホイ郡のフンブオン(Hung Vuong)通りで、ようやくその夢が実現した。

 ハイさんは、生まれたときは健康体だったが、1歳になる前に重度の火傷を負い、顔全体にケロイドが残ってしまった。子供時代、近所の子供たちは誰もハイさんと遊びたがらず、当時の唯一の友達は近くの家に住む聴覚障害を持つ少年だった。「僕たち2人は、誰も友達になってくれないという共通の悲しみを抱えていました」とハイさんは当時を振り返る。

 6歳のとき、ハイさんは両親に学校に連れて行かれたが、クラスメイトから絶えずからかわれたり差別されたりし、4か月後には学校に行かなくなった。そのため、ハイさんの子供時代は、母親が営む小さな雑貨屋で細々とした仕事を手伝うだけだった。

 10歳のとき、ハイさんと視覚障害を持つ友人は初めて遠方の市街地に行き、初めて目にするたくさんの種類のケーキが並べられた、豪華なケーキ屋の前で立ち止まった。2人はそのケーキを食べることを夢見て家に帰り、ハイさんはそれから何か月もかけてお金を貯めた。

 ケーキ1切れを買うのに十分なお金が貯まると、2人は興奮しながらケーキを買いに再び市街地に向かった。「でも、お店の中に足を踏み入れると、店員に話すら聞いてもらえず、帰れと言われて外に出されました。とても残念で悲しい気持ちでした。その日は友達の誕生日だったんです」とハイさんは回想した。

 心の中に夢を抱きながらも、その夢を実現するのはとても難しいことだとハイさんはわかっていた。成長するにつれて孤独は大きくなっていき、自分の顔が傷だらけだというコンプレックスを乗り越えることができなかった。

 15歳になり、将来について考えるようになったハイさんは、思い切って家を出て、職業訓練ができる場所を探すことにした。しかし、読み書きができないことや容姿、健康状態などの理由で、ハイさんを受け入れてくれるところは1つもなかった。「2年以上の間、家から出ませんでした。運命すらどうでもよくなり、全て手放したんです」とハイさん。22歳になるまで、ハイさんの世界は小さな家の中だけが全てだった。

 2016年、ハイさんはある慈善団体の資金援助を受けてドイツに渡り、癒着していた胸の皮膚と顎の下の皮膚を分離する手術を受けることができた。この手術はハイさんの容姿を変えただけでなく、ハイさんの考え方にも変化をもたらした。

 術後21日間に及ぶ昏睡状態から目覚めたハイさんがホームシックで悲しんでいる様子を見て、ドイツ人の医師や看護師はハイさんに故郷の歌を聴かせ、また簡単なベトナム語の挨拶を覚えてハイさんに声をかけて励ました。

 また、ハイさんが入院していることを知り、ドイツ在住のベトナム人たちが遠方から病院を見舞いに訪れた。こうしてハイさんは人生で初めて家族以外の人々に囲まれ、温かい誕生日を過ごすことができた。

 「皆が皆、あれほど良い人たちばかりではないと思いますが、誰もが僕を差別して除け者にするわけではないのだということがわかりました。入院中、僕より重度の火傷を負って手術を受ける人をたくさん見ましたが、それでも彼らは楽観的でした。外に出ることができる自分は、とても幸運なのだとわかったんです」とハイさんは打ち明けた。

 ハイさんはベトナムに戻ってから、社会福祉法人であるKOTOがハノイ市で運営する、調理師になるための職業訓練センターに入学の申請をし、10歳のころからの夢を叶える決心をした。

 職業訓練センターのクラスメイトの1人であるグエン・ティ・フオンさん(女性・24歳)は当時をこう振り返る。「ハイさんはクラスの中でも特に目立つ容姿でした。さらに彼は読み書きができなかったので、クラスでスタートが一番遅れていました。調理師になるための勉強をしながら、休憩時間と夜は文字を書く練習をして、他の人の10倍は努力していました」。

 職業訓練センターの最初の授業では、クラスメイトが2ページ分のノートを書き写す間に、ハイさんは簡単な文字で2行分しか書くことができなかった。それから毎晩深夜2時まで書き取りの練習をし、おかげで約2か月後にはすらすらと文字を書くことができるようになった。

 「職業訓練センターでは人生で初めて多くの人と接し、たくさんの友達ができました。記念撮影のときには皆で肩を組み、自分が仲間外れに感じることもありませんでした。皆それぞれが困難な環境にあるため、お互いをきょうだいのように思い合い、もはや自分と他人との違いなど感じませんでした」とハイさんは語る。

 職業訓練センターで講師としてソーシャルスキルを教えているグエン・タイン・トゥイさんによると、ハイさんは学校でいつでもメモが取れるよう常にメモ帳とペンを手に持っていたという。また、当時のハイさんは痩せて身体も弱かったが、調理実習にはしっかりと参加し、一方で自分の容姿のせいで就職できるかどうかといつも心配していた。「ハイさんが卒業するときには、彼の努力が実を結んだことに感動して泣いてしまいました」とトゥイさんは当時を思い出して語った。

 ハイさんは自分のケーキ屋を開くという夢を講師やクラスメイトによく語っていたものの、職業訓練センターを卒業した後もすぐに故郷には戻らず、調理の経験を積むためにレストランでの仕事を探した。「私の世界はまだとても小さく、世界を広げるためには外に出ていく必要があると思ったんです」とハイさん。

 今年の初め、27歳になったハイさんは、故郷のコントゥム省ゴックホイ郡に戻り、店を開いた。各種のケーキやミルクティーも提供するハイさんの店は、田舎の子供たちへの贈り物にもなった。ハイさんはかつての自分のように、田舎に住む子供たちがわざわざ遠方に行かなくてもきれいなケーキを見たり買ったりできることを願い、この場所を選んだのだ。

 ハイさんは1日中店に立って嬉しそうに接客し、かつてのような自虐的な様子は全くない。そして、行くあてのない子供たちや宝くじ売りの子供たちを見かけると、店に招き入れ、1切れのケーキを振る舞っている。

 それでも、カフェに入ってきた客がハイさんの顔を見るなり慌てて立ち去ってしまったことも何度かある。「その瞬間の数秒だけは悲しいですが、すぐに立ち直ります。ケーキ屋を開くという夢は私の子供時代の全てであり、私が全精力を注いだ青春時代の全てでもあります。自分との約束を果たすことができ、心も軽くなりました」とハイさんは教えてくれた。 

[VnExpress 05:05 18/10/2021, A]
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