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[特集]

16歳で一家の大黒柱に…新型コロナで両親を失い、ダウン症の兄と暮らす

2021/12/19 10:34 JST更新

(C) vnexpress
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 ホーチミン市在住のグエン・ドゥック・バオさんは、「両親が死んだら兄の面倒を見るように」と、幼いころに母親からいつも言われていたことを今でも覚えている。そして、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が、若干16歳のバオさんにその約束を果たさせることになってしまった。

 11月末のある朝、グエンフウフアン高校の物理の授業が始まったとき、トゥードゥック市タムフー街区の自宅にいるバオさんはまだ家の掃除をしているところだった。

 先生に名前を呼ばれ、バオさんはモップを放ってパソコンの前に走ったが、答えの計算が間に合わず、先生から「勉強する気がないのか?」と言われてしまった。

 この出来事を振り返りながら、バオさんはこの2か月の間に授業を欠席したり、同じように質問に答えられなかったりということが何度かあったのだと付け加えた。「いつも朝は家事で15分ほど、昼近くには兄の食事の準備で5~10分、授業を聞き逃してしまうんです」と理由を話した。バオさんの23歳の兄はダウン症で、バオさんが兄の世話と家事を一手に引き受けている。

 新型コロナの第4波は、10月までに2500人余りの子供たちから親を奪った。このうち、バオさん兄弟を含め、100人余りが両親とも失った。

 「父が突然亡くなり、家族皆がぼう然としていました」と、バオさんは8月7日のことを思い返した。父親を病院に連れて行くためバオさんが服を着替えているとき、父親は倒れ、そのまま逝ってしまった。

 その1週間前に父親はワクチンを接種し、帰宅後に発熱した。家族は皆、ワクチンの副反応だと思っていたため、まさか高熱が長引くとは考えもしなかった。

 父親の葬式をする間もなく、バオさんと母親、兄も検査で陽性となり、12区の第2仮設病院に移送された。最初の2日間は母子3人で同じ12階の病室にいたが、母親の病状が悪化し、1人だけ1階の病室に移動した。兄は高熱が続き、食べたり飲んだりすることも拒否した。そんな中、バオさんは12階と1階を行き来し、兄と母親の看病をした。

 7日が経ち、バオさんと兄は自宅隔離が認められ、帰宅することになった。しかし、母親は重症で、別の病院に転院した。

 「それから数日間、落ち着かない夜を過ごし、ただただ奇跡を祈っていました。でも、8月22日午前5時の電話の後、母は亡くなりました」とバオさん。

 バオさんの父親は中学校の数学の先生で67歳、母親は幼稚園の先生で58歳だった。両親が老後の住まいとして15年前に建てた自宅は、今や子供2人だけのものになってしまった。この家の中で、末っ子のバオさんは一家の大黒柱として生きるための方法を学んでいる。

 以前のバオさんは勉強しかしていなかったが、今は自分と兄の2人の家庭を管理しなければならず、それは決して簡単なことではない。朝は拭き掃除に掃き掃除、皿洗い、植物の水やりに1時間はかかる。兄が病気のときはもっと時間がかかる。「勉強する時間がとれなくて悔やんだこともあります」と、バオさんは正直に話した。

 母親が亡くなってからキャパオーバーを感じた約1週間を経て、バオさんは家庭と勉強を両立する方法を学んだ。

 勉強のスケジュールは午前7時から午前11時までと午後5時から午後9時、時には午後10時30分まで。バオさんは午前5時に起きて1時間勉強してから朝食を用意し、午前6時30分に兄を起こして一緒に朝食をとる。

 授業を聞き逃したり、家事に抜けがあったりしないよう、「授業をしながら拭き掃除」や「授業をしながら料理」といった、両方を同時進行する方法を編み出した。

 近所に住む伯父と伯母が毎日バオさんたち兄弟のもとを訪れてサポートしてくれる。バオさんができる限り安心して授業に臨めるよう、皆が交代で昼食を届けてくれる。夕食はバオさんが用意する。バオさんは独学でパスタやピザ、サンドイッチなどを作り、兄の食欲を刺激するため、日ごとにメニューを変える。

 母親の手料理が恋しくなった日は、伯父伯母の家に行って酸っぱいスープ(canh chua=カインチュア)や豚の角煮と煮玉子(thit kho tau=ティットコータウ)、煮込み魚(ca kho=カーコー)などを食べさせてもらう。

 自分が夕食を用意するようになって3か月が経ち、今では市場に行くのにも食事を用意するのにも自信がついた。

 両親が亡くなった当初にバオさんが困ったことは他にもある。兄との関係だ。以前は両親が兄の世話を全てしていた。

 入院中、重症患者の治療病棟に移る日、母親は何度も「お兄ちゃんの面倒を見てね」と繰り返した。その瞬間、バオさんは泣かなかったが、母親の目を見て約束した。バオさんは、父親が亡くなる前に何か言葉を発していたとしたら、きっと母親と同じことを言っただろうと思っている。

 1人で兄の世話をするようになり、バオさんは思っていたよりも大変ではないことに気付いた。兄は自分で飲んだり食べたりでき、トイレやシャワーも1人でできる。バオさんの授業中は、静かにアニメを見たり絵を描いたりしている。

 赤ちゃんのような23歳の兄は母親が亡くなったことをしばらく認識できず、よく「お母さん、入院が長いね。どうして帰ってこないの?」とバオさんに聞いた。

 そんなとき、バオさんは「良い子にしてよく食べてよく寝たら、明後日には帰ってくるよ」と嘘をついた。近所の人や両親の教え子が自宅を訪ねてきたときに母親は亡くなったのだと言うのを聞いて、兄もようやく理解した。それから数日、兄は無口になり、食欲も失くした。

 兄との関わりが深くなり、もはや責任として兄の世話をしていると感じることはなくなり、責任ではなく愛情なのだと気付いた。風が吹けば温かくしてあげ、食欲がなさそうであれば何が食べたいか聞いて作ってあげる。母親が作るように豚の角煮と煮玉子が美味しくできたとき、兄は言葉で褒めることはできなかったが、あっという間に食べて、おかわりをした。そんな兄を見て、バオさんはふと幸せを感じた。バオさんは時々、勉強の時間を削って兄と一緒にアニメを見たり、本を読んであげたりしている。

 バオさんが通っていたグエンフウフアン中学校で数学を教えるグエン・ティ・カム・チンさんによると、バオさんの両親の年金は多くなく、ホーチミン市で2人の子供を養っていくには十分でなかったため、父親は仕事を続けなければならなかったという。

 「バオさんのお父さんが亡くなったと聞いて、お母さんに電話をかけました。彼女は悲しみ、切羽詰まり、一家の大黒柱を失ってこれからどうやって2人の子供を養っていけばいいのかと心配していました。まさかわずか十数日後に彼女まで亡くなるなんて思いもしませんでした」とチンさんは語る。

 地元当局や学校、保護者会、親戚は、両親を失ったバオさん兄弟を精神的に励まし、兄弟の経済的負担を減らすべく金銭的な支援を決めた。ひとまず、バオさんが高校に通う残り2年間の金銭的な心配はなくなった。しかし、18歳になれば支援は終わる。「18歳になったとき、大学の学費と兄の養育費を支払うことができるのか心配です」とバオさんは打ち明けた。

 毎日午後5時半になると、バオさんと兄はオンラインで教会の礼拝に参加し、両親に祈りを捧げる。部屋の片隅にはピアノがあるが、この2か月は弾くことができずにいる。最後の音を弾き終わっても褒めてくれる母親がいない、それを実際に感じるのが怖いからだ。

 バオさんは毎日2時間を数学の勉強に充て、全国数学オリンピックでの入賞を目指している。父親はバオさんが幼いころから数学に親しませてくれ、母親は労を惜しまず勉強するよう助言してくれた。

 「両親に捧げるために、数学オリンピックでメダルを獲りたいです」とバオさんは語った。 

[VnExpress 07:00 07/12/2021, A]
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