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[特集]

大嫌いだった家業の茶栽培で起業した女性

2022/03/13 10:07 JST更新

(C) vnexpress
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 実家が営む茶畑で苦労を重ねてきた東北部地方タイグエン省出身のホアン・ティ・トゥイ・バンさん(女性・28歳)は幼い頃、いつか都市部に出て生計を立てられるようになったら、故郷に帰って実家の茶畑の木を全て切り倒すと誓った。この家業には、あまりにも嫌な思い出が詰まっていたからだ。

 タイグエン省ダイトゥー郡ホアンノン村出身のバンさんの子供時代といえば、この地域の特産品である茶の木の思い出ばかりだ。しかしバンさんの思い出は、喜びよりも悲しみが多い。

 バンさんは幼いうちから、学校に行っている時間以外は茶畑の丘に登って茶を摘んでいた。バンさんが中学2年生(日本の中学1年生に相当)の時、母親が目の病気になり、あちこちで治療を受けて1年近く仕事ができなかった。

 しかし、兄姉は遠方の学校に通っていたため、バンさんが広さ1haの茶畑を1人で全て管理しなければならなかった。日中は茶を摘み、夜は家に帰って食事の支度をし、その後は夜中まで窯で茶葉を煎って殺青の作業をするという生活だった。さらに、自分の家の茶畑の収穫が終わると、近所の家の手伝いに行った。

 茶業は苦労が多いだけでなく、危険も伴う仕事だ。ある時、殺青の作業を行う際に急いでいて髪を結ぶのを忘れていたバンさんは、機械に髪を巻き込まれそうになったことがある。幸い近所の人がすぐに気付いて機械のコンセントを抜いてくれたため助かったが、そうでなければ髪を全て失うところだった。また、大雨の日は茶畑の丘を登る道が滑りやすく、転んで全身ずぶ濡れになったこともある。

 バンさんの母親はまだ目に痛みが残っていたが、幼いバンさんがかわいそうになり、フルフェイスのヘルメットをかぶって殺青の作業を手伝った。6月の暑い日、ヘルメットを脱いだ母親の髪の毛が洗ったばかりのようにびしょびしょに濡れているのを見て、バンさんは突然泣き出した。

 それを見た母親は「こんな状況から抜け出せるように、頑張って勉強するのよ」とバンさんに伝えた。バンさんは人生を変えるために一生懸命勉強し、いつか実家の茶の木を全て切り倒すと心に誓った。

 バンさんの勉学の努力は報われ、大学を卒業すると都市部に出て、セールスエグゼクティブとして働き始めた。ノルマを達成しては成果報酬を受け取り、「ホットボーナス」とあだ名がつけられるほどで、農家の末っ子だったバンさんは両親の誇りになった。

 しかし、息苦しく埃っぽい都市部の生活でバンさんは3度も食中毒になり、都市部は自分がいるべき場所なのだろうかと疑問に思うようになった。3度目の食中毒から回復すると、バンさんは休みをもらって故郷に帰った。実家の庭先に座って広大な茶畑の丘を眺めていると、突然、かつて起業コースの講師が話してくれた言葉が耳元で鳴り響いた。

 そのコースで講師は学生に、自分が最も精通している、つまり「目を瞑ってでもできる」分野での起業を勧めた。講師に精通した分野を聞かれたバンさんは「茶摘みです。小さい頃、昼間に茶摘みをしながらあまりにも眠くなり、目を瞑ったまま摘んでいました」と答えた。講師は笑いながら「それなら茶業を選びなさい」と伝えた。しかしバンさんは慌てて「お茶は嫌なんです」と返したのだった。

 その夜、バンさんは世界で初めて無農薬・無肥料のりんご栽培に成功した木村秋則氏の「奇跡のりんご」の動画を見返し、有機農業に関する本を読んだ。そして、故郷に帰って茶の自然栽培を始めることに決めた。

 2019年3月、バンさんは荷物をまとめて都市部を離れた。バンさんが起業のことを姉に報告すると、姉は「これから大変なことがたくさんあると思うけど、一番大変なのは両親の同意を得ることよ」と警告した。姉の警告通り両親は怒り、その年は一度も口をきいてくれなかった。

 実家の茶畑では自然栽培に着手することができず、バンさんは村の住人から面積2880m2の土地を借りた。毎日両親に隠れて出かけ、バイクで8km、徒歩で1kmも丘を登り、土地を耕して雑草を取り除いた。作業が終わるとこっそり家に帰り、清潔な衣服に着替えてから両親の前に顔を出す日々だった。

 土壌の湿度を保つ除草作業の他に、バンさんは茶の木の根元を覆うためにわらと緑肥を集めた。さらに、その場で肥料を作るために間作として様々な植物を植え、大豆を培養し、熟した果物を加えるなどして、有機農業に必要な土壌の栄養を蓄えていった。

 化学薬品を使わないため、最初に植えた茶の木は発芽したばかりの茶芽が全て虫に食べられ、アブラムシに覆われてしまった。茶の木の手入れをするたび、バンさんの身体のあちこちに虫がくっついた。洗っても虫がとれず、小川に飛び込み、服が乾くのを待ってから再び作業を続けた。

 当初、近所の人たちは「両親に良い教育を受けさせてもらったのに、都会を捨てて田舎に戻ってくるなんて」とバンさんを叱っていたが、バンさんが茶の木よりも他の植物を育て、殺虫剤を使わずに虫まみれになっている様子を見て、「狂っている」と噂するようになった。「私はただ隅の方に身をかがめ、噂話や両親からの激しい反対は聞こえないふりをしました」とバンさんは当時を回想した。

 バンさんは地元で起業のトレーニングコースや茶栽培に関する専門講座に参加し、また読書やインターネットで研究を続け、問題の解決策を模索した。

 ある時、ハノイ市で行われた茶のプロモーションフェアを訪れた際、バンさんは茶に目がないという軍人に出会い、2人は恋に落ちた。夫は自宅を離れて勤めていたため、結婚後もバンさんは相変わらず1人で茶畑を管理していた。

 妊娠し、お腹が大きくなってもバイクに乗って茶畑の丘に登り、生姜やニンニク、唐辛子などの自然素材から虫除けを作り、茶の木と共生する微生物を育て、牛糞を木の根元に撒いて肥やしにした。

 子供が1歳にならないうちから、バンさんは子連れで様々な見本市に出かけた。子供と一緒に講習会にも参加し、学校や見本市の会場の庭で子供が昼寝をすることも度々あった。長距離移動や不規則な食事のせいでバンさんの母乳が出なくなってしまい、子供が空腹で泣くこともあった。「泣いている子供を見て、自分はそんなに困難な道を選んでしまったのだろうか、と自問しました」とバンさん。

 2020年半ば、バンさんの畑の土壌に柔らかさが戻ってきた。茶の木の先端は競うように大きくなり、伝統的な手法の茶畑よりもむしろ良い出来になった。強い日差しの中、他の畑は元気がない様子だったが、バンさんの畑の茶の木は生き生きとしていた。

 村で茶畑を営んでいる人々はバンさんの畑を見学に訪れ、何人かはバンさんの栽培方法を学び始めた。バンさんはソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)でも茶の木を育てたり茶を作ったりするプロセスを共有し、商品を注文してくれる顧客も出てきた。そして、ハノイ市に住む友人も、バンさんの有機農法の茶畑を一緒に運営してくれることになった。

 顧客ができ、辛さを共有できる仲間ができて、バンさんはますます力が湧いてきた。商品のパッケージをデザインし直したり、わらを集めて乾かしてから茶葉を包み、遠方に運ぶ際に茶葉がつぶれないよう、環境に優しい緩衝材を使ったりと工夫を重ねた。

 2021年6月、バンさんのブランドである「アンバンチャー(An Van Tra)」の商品はISO規格を取得し、都心部からも多くの人々がバンさんの茶畑へ見学に訪れるようになった。

 「都会を捨てて田舎に戻った妹を恥ずかしく思っていた両親も、今ではバンを誇りに思っています。お客さんが家に来ると、両親はいつもバンの『有機栽培茶』でもてなすんです」とバンさんの姉であるギエップさんが教えてくれた。

 2021年半ば、西北部地方ライチャウ省の中学校で10年間教師の仕事をしていたギエップさんは、公務員の夫と共にタイグエン省に帰り、妹の仕事を手伝い始めた。さらに、姉の同僚もバンさんの起業の話を聞いて、仕事を辞めて茶畑を手伝うようになった。もともと2880m2程度だった茶畑は、今では1ha近い広さになった。

 「10年ぶりに、自分も父も昔と同じ風味のお茶を味わえるようになったよ。ありがとう!」これは、都市部に住む顧客からバンさんに送られたメッセージだ。バンさんは毎日、顧客からのメッセージを受け取り、この3年間の汗と涙には全て意味があったのだと実感している。 

[VnExpress 07:00 10/02/2022, A]
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