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[特集]

タイ族の女性が国際ドキュメンタリー映画祭で監督賞を受賞するまで

2022/03/20 10:03 JST更新

(C) vnexpress
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 2021年11月にオランダの首都アムステルダムで開催された世界最大のドキュメンタリー映画祭「アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭2021(IDFA 2021)」の国際コンペティション部門で、ベトナムのドキュメンタリー映画「Children of the Mist(原題:Nhung Dua Tre Trong Suong)」を手掛けたハー・レ・ジエム(Ha Le Diem)監督(30歳)が最優秀監督賞を受賞した。同部門の最優秀監督賞は、最優秀作品賞に次ぐ大賞だ。

 最優秀監督賞の受賞者として名前を呼ばれたとき、一番後ろの席に座っていたジエム監督は、一斉に自分に向けられた視線に驚いた。そして、会場の大画面に自分の作品が映し出され、驚愕した。心の準備ができていなかった。

 名前が呼ばれる前、ジエム監督は主催者が自分の席を最前列にした意図など知らず、知り合ったばかりの2人の監督と一緒に最前列から一番後ろの席にこっそり移動していたのだった。

 授賞式では、周りのほとんどの人たちがめかしこんでいる中、ジエム監督はカジュアルなデニムジャケットを羽織っていた。ステージに上がったジエム監督は、4年間の月日を費やしてきた作品によって授賞式のステージに立つ機会を与えてくれた映画祭に感謝の言葉を述べた。

 ジエム監督は東北部地方バクカン省で生まれ育った、少数民族のタイ(Tay)族だ。幼いころから元小学校教員だった父方の祖父の影響でたくさんの本を読んで育った。しばしば友人たちが彼女のもとに集まり、彼女が読む物語に耳を傾けた。

 語り手への好奇心はジエム監督の中に深く染み入り、高校を卒業するとき、あちこちへ行けてたくさんの興味深い体験ができて、そしてそれを多くの人に伝えることができると考え、メディアの道を選んだ。しかし、高校を卒業して報道機関やテレビ局で働きながら、口数が少なく内向的な自分の性格とこの仕事は合っていないと感じるようになっていた。

 そして、2012年と2016年に2つの映画制作コースを受講したジエム監督は、インディペンデントのドキュメンタリー映画制作の道に進むことを決めた。

 これは勇気のいる決断だった。インディペンデント映画を手掛けるには、未来が全く見えない中で、自分でテーマを見つけ、自分で資金を調達し、自分で協力者を探さなければならないからだ。その代わり、自分の心に従って自由に制作することができる。

 最初の短編映画「Con Duong Di Hoc」は、200万VND(約1万0400円)の支援を受け、ジエム監督がまだ学生のときに完成した。当時は週末になると故郷へ帰り、峠をのぼり、小川を渡ってHIVに感染しながら女手1つで幼い息子を育てる女性に会いに行っていた。

 カメラを手に、女性を追って森に入り、薪を割ったりバナナをとったり、母子と一緒にタケノコの唐辛子炒めだけがおかずの食事をとったりした。その親密さのおかげで、母子は呼吸をするように自然に映画の中に映り込み、同作品は2013年にベトナム映画協会から短編映画部門でシルバーカイト賞(ゴールデンカイト賞なし)を受賞した。

 その後、2017年秋に最初の長編ドキュメンタリー映画「Children of the Mist」に着手するまでに、何本かの短編映画を制作した。

 「Children of the Mist」は、西北部地方ラオカイ省に暮らす、少数民族モン族の12歳の少女ジーさんの人生をつづったものだ。ジーさんはサパの中心部から約12km離れたところに住んでいる。ジーさんはとても勉強熱心だが、男性が嫁となる女性をさらう「嫁さらい」などのモン族の風習により、未来がすっかり変わってしまう可能性があった。

 100分近いこの作品では、ジーさんと周囲の人々との関わりから、守っていくべき伝統的な風習と現代の価値観のはざまで生きる少女の様子を描いている。

 「あるとき、ジーの後について丘をのぼって遊んでいると、子供たちが無邪気に『嫁さらい』ごっこをしているのを目にしました。わずか数年後に、このごっこ遊びが子供たちの現実になるかもしれないと想像し、突然怖くなりました。それで、映画にすることを思いついたんです」とジエム監督は語る。

 それ以来、ジエム監督はジーさんの人生を記録するため、年に5~6回はジーさんのもとを訪ねた。ジエム監督は物事の外側に立つのではなく、少数民族の言葉はわからないながらも、登場人物の生活に溶け込むようにした。

 ジーさんの家族と一緒に田植えをするときも、稲刈りをするときも、ジーさんが学校に行くときも、村の結婚式や葬式のときも、カメラはしっかりと携えて行った。

 村人の家でお酒を飲んで酔っぱらい、豚が掘った穴に落ちて全身ずぶぬれになったこともある。そのときは、ジーさんの両親がそれぞれ両側を支えて連れて帰ってくれた。そのとき、ジーさんの母親が草笛を吹き、父親が語り、ジエムさんはあまりに夢中になってカメラの電源を入れ忘れてしまったという。

 ジエム監督とジーさんは、友人のようであり姉妹のようでもある。ジエム監督は、ジーさんが男性と一緒にお酒を飲んで仲良くすることを心配し、はたまた怒ったこともある。

 ジーさんの母親も姉も「嫁さらい」で結婚した。ジーさんの父親が母親を「さらった」とき、母親には別の恋人がいた。しかし、恋人が「さらわれた」ことで、母親の恋人だった男性は自殺してしまった。

 霧に覆われたその地と同じように、依然として風習が家族、階級、貧困に重くのしかかっている世界では、「妹」が選択の自由を持つことができないのではないかとジエム監督は心配していた。

 結局のところ、ジーさんは母親や姉のように「嫁さらい」で結婚することはなかった。ジーさんは17歳のときに愛する人と結婚し、今では娘もいる。

 ジエムさんの母親であるリエン・トーさんは、「娘に苦労させたい母親なんていません。だから、娘が大手の報道機関での安定した仕事を捨てるなんてと大反対しました」と語る。母子の間に緊張が走ることも多々あったが、トーさんが何を言ってもジエム監督はただ黙っていた。

 親しい友人も反対し、ジエム監督にもっとやさしい道を選ぶようアドバイスした。「それでも、応援してくれる人もたくさんいたんです」とジエム監督は話す。親友が半年間も生活を支えてくれたり、先輩がカメラを貸してくれたりもした。

 映画制作コースでジエム監督を指導したチャン・フオン・タオ監督も、ジエム監督が今後の成長の機会を逃してしまうのではないかと心配して「Children of the Mist」の制作に反対し、テレビの道に進んだほうがいいと勧めた。しかし、ジエム監督は「テレビの制作は私には合いません」と答えた。

 しかし、「Children of the Mist」の制作が進む中で、タオ監督もジエム監督の粘り強さに気付き、クルーもその情熱に感動し、ジエム監督への信頼が育っていった。

 4年間で膨大な時間の撮影をした。難しかったのは、モン族の言語の翻訳者を雇う資金を調達することだった。そこでジエム監督は、あちこちの基金に書類を出した。最初に支援を得ることができたのは、すでに作品がだいぶ形になった2019年のことだった。その後、他の多くの基金からも支援を得ることができた。

 タオ監督は「映画が完成して、これは賞をもらえるなと思いました。まさにジエムらしい作品であり、彼女そのものだったからです」と語る。

 ジエム監督にとって、最優秀監督賞の受賞はこれまでで最も大きな功績だ。ジエム監督は「受賞以来、支援の申請も楽になりました。きっとこれからの道は、いばらが減って、もっと情熱的なものになるでしょう」と語った。 

[VnExpress 07:00 13/03/2022, A]
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