VIETJO - ベトナムニュース 印刷する | ウィンドウを閉じる
[特集]

ベビーリフトで米国へ、母親との再会を夢見るベトナム出身の女性

2022/11/20 10:03 JST更新

(C) vnexpress
(C) vnexpress
(C) vnexpress
(C) vnexpress
 米国バーモント州バーリントンに暮らすグエン・ティ・タイン・ホンさん(女性)はこの50年間、小さな女の子がある女性を「お母さん、お母さん!」と呼びながら追いかける夢を頻繁に見ている。しかし、母親と思われるその女性の顔を見たことは一度たりともない。

 その夢を見るようになったのは、当時6歳のホンさんが米国の家族の養子になった頃からだ。米国に着いた初日、幼かったホンさんは靴を脱いで壁を汚してしまったことで、米国の家族から叩かれた。その夜、ホンさんは初めてその夢を見た。それ以来、悲しい気持ちになるたびに同じ夢を見るようになった。

 「私はキッチンでご飯を1人で食べなければならず、そういう時にはいつもお母さんがいてくれたらな、と思っていました。当時は、母が私を3歳くらいまで育ててから、米国に行くチャンスが得られるように、評判の孤児院に私を託してくれたんだろうと思っていたんです」と、ホンさんは語る。

 ホンさんは15歳で育ての親の元を離れ、自分で生計を立てるようになった。18歳の時に、米国に渡る際に身元保証人となってくれたカトリック教会を見つけ出し、自分のすべての身分証明書類を取り戻すことができた。

 書類によれば、かつてのザーロン通り(現在のホーチミン市1区リートゥチョン通り)のマンションの外に捨てられていたホンさんを、ある修道女が見つけて同市ゴーバップ区にあるホアビン・ザーディン孤児院に連れて行ったのだということがわかった。しかし、ホンさんは捨て子だったため、出生証明書はなく、母親に関する情報は一切残されていなかった。

 そして1975年4月15日、米軍の「オペレーション・ベビーリフト」により、ホンさんはベトナムを離れ、米国に渡った。「オペレーション・ベビーリフト」とは、1975年4月30日のサイゴン陥落前のベトナム戦争末期に米軍が行った南ベトナムの孤児を国外へ避難させる空輸作戦で、3000人以上の南ベトナムの孤児が米国やオーストラリアなどに養子として迎えられたとされている。

 ホンさんは20歳で結婚し、3人の子供をもうけた。日々の生活は忙しかったが、それでもホンさんの母親を探したいという思いが薄れることはなかった。

 「父と私は、妻が自分のルーツを見つけられるようサポートしましたが、当時はただ色々な人に聞いて回る以外に方法がありませんでした」と、ホンさんの夫であるクオック・チャウさん(58歳)は教えてくれた。

 2016年、ホンさんは40年以上ぶりにベトナムに戻った。故郷に足を踏み入れた時、ホンさんは親しみを強く感じたが、一方で断片的で漠然とした記憶しかなかった。

 かつてホンさんが捨てられていた場所とホアビン孤児院を見つけることはできたが、米国に渡る際の書類にサインをしたチュー・バン・タン氏はすでに亡くなっており、1975年以前にそのマンションに住んでいた人ももういなかったため、ホンさんの母親に関する手がかりは行き詰まってしまった。

 2018年、ホンさんはDNA鑑定を受けて「Ancestry Library」 に提出し、ついに米国人である父親を見つけた。「母を探すつもりで、父を見つけることができたんです。再会はとても素晴らしいものでした」とホンさん。

 米国人の父親は1967年3月8日から1968年3月3日までベトナムで戦った空軍兵だった。しかし、当時は週末ごとに違う女性と会っていたため、ホンさんの母親の記憶は全く残っていなかった。「父がベトナムにいた時期から考えると、書類に書かれている1969年11月30日という私の生年月日はありえません。父によると、私は1968年に生まれたようです」とホンさんは語る。

 その後もホンさんは、DNA鑑定のサイトや混血児のグループなどで母親の情報を探し続けた。そして2022年初め、ホンさんがあるユーチューブ(YouTube)チャンネルで母親を探している話をしたところ、わずか半日で東南部地方ドンナイ省に住む家族からDNA鑑定を依頼する連絡があった。

 連絡をくれた1937年生まれのバン・ティ・フエさんと彼女の子供や孫たちは、ホンさんの幼い頃の写真や現在の姿と比較すると多くの類似点があり、さらにこの家族は幼い頃に行方不明になったホンという名前の子供を探し続けていた。ホンさんの心に、希望が湧き上がった。

 情報を交換した数日後、早速ホンさんはDNA鑑定のために自分の髪の毛と爪をベトナムに送った。結果を待つ数日間、眠れない夜を過ごしたが、鑑定結果は不一致で、ホンさんの希望は打ち砕かれた。

 「私は泣きたい気持ちとそうでない気持ちの半々でした。母を見つけることができればもちろん嬉しいですが、不一致の結果でも、彼らの子供を見つける手伝いをするつもりです」とホンさん。

 少し前に、ホンさんの義理の娘が米国からベトナムに来て、かつてホンさんが捨てられていたマンションや孤児院を再訪して調査を行った。ホンさんも母親を探す手がかりをつかむため、より多くのベトナムのメディアで自身の話を公開したいと希望している。

 ホンさんは母親を探すにあたっての追加情報として、自身の左耳たぶの下にあざがあること、また遺伝子分析によると中国の血が若干入っているため、母親の血統は中華系である可能性が高いことも明らかにしている。

 ホンさんにとって、母親を見つけたいという思いは日に日に増し、特に父親を見つけてからはさらにその気持ちが強くなっている。物理的な距離は4000kmも離れているが、ホンさんは時間を作っては頻繁に父親に会いに行っている。

 ホンさんの父親は戦争の後遺症で身体が弱っている。しかし、2人の息子たちによれば、もともとあまり笑うことのない父親が、ホンさんが来るときはいつも嬉しそうなのだという。

 50年以上生きてきて、自身も子供がいるホンさんは、自分を捨てた母親を責める気持ちはないと話す。彼女はただ母親を見つけ、米国に迎え入れて老後の面倒を見たいと考えている。

 「幼い頃から母を探し続け、いつも母の夢を見ては泣いていました。大きくなればなるほど母の存在が恋しくなりました。歳を取るにつれ、自分の中に流れているアジア人の血について考えるようにもなりました」とホンさんは語る。

 「長い間、私の心にはぽっかりと穴が開いていました。父を見つけることができても、その穴は半分しか埋めることができていません。母を見つけた時に、その穴を完全に埋めることができるのだと思っています」とホンさんは付け足した。 

[VnExpress 06:16 20/10/2022, A]
© Viet-jo.com 2002-2024 All Rights Reserved.


このサイトにおける情報やその他のデータは、あくまでも利用者の私的利用のみのために提供されているものであって、取引など商用目的のために提供されているものではありません。弊サイトは、こうした情報やデータの誤謬や遅延、或いは、こうした情報やデータに依拠してなされた如何なる行為についても、何らの責任も負うものではありません。

印刷する | ウィンドウを閉じる