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[特集]

この道30年、人々の心を文字に起こす路上のタイプライター職人

2023/07/09 10:20 JST更新

(C) vietnamnet
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 南中部沿岸地方カインホア省ニャチャン市在住のファム・ティ・アイン・トゥーさんは、依頼人1人1人から聞く話をもとに、彼らが当局に提出する書類の文章をタイプライターで打っていく。

 ファンボイチャウ(Phan Boi Chau)通りとハントゥエン(Han Thuyen)通りの角に座り、この30年余りの間、トゥーさんはせわしなくタイプライターを打ち、人々のために数十万通もの書類を作成してきた。

 トゥーさんの仕事場には高さ1mもない小さな台があるだけで、看板すら掲げていないが、誰もがトゥーさんのことを知っており、書類が必要になるとトゥーさんのもとにやってくる。

 トゥーさんはこの日、書類の作成を依頼しにきたレ・ティ・ビンさんの話にじっくりと耳を傾け、内容を暗記してからせっせとタイピングしていく。書類が完成すると、トゥーさんは自分の訴えが正しく適切であることを証明するために提出しなければならない関連書類についても丁寧にアドバイスした。

 小学5年生を終える前に学業から離れたビンさんにとって、書類の作成はとても難しいことだった。家が貧しく、弁護士に依頼することもはばかられたというビンさんは当初、印刷屋に書類の作成を頼んだものの、書類の内容を話すと首を横に振られてしまった。「それでトゥーさんのもとに駆け込んだら、トゥーさんは私の話を聞いただけで私が何を望んでいるのか、何を必要としているのかもすぐにわかってくれました」とビンさん。

 トゥーさんは30年間で一体何通の書類を作成したか、もはや覚えていないが、今から10年近く前に離婚申立書の作成を依頼しに訪れたという女性の思い出を嬉しそうに語った。

 50歳そこらのその女性は、自転車でトゥーさんの仕事場のところへやってきたが、何を言い出すでもなく1時間近くもトゥーさんのそばにたたずんでいた。おかしいと思ったトゥーさんが声をかけると、その女性はおずおずと口を開き、夫への離婚申立書を作成してほしいのだと言った。

 女性は落ち込んだ様子で自分の結婚生活について語り始めた。夫婦は結婚して30年近く経ち、子供も3人いる。しかし、ここ数年は夫がしょっちゅうお酒を飲み、酔っぱらっては妻を殴り、子供たちにも怒鳴りつけるのだという。理由はただ、生活が苦しいから。夫が1人で家計を支え、身体の弱い妻は専業主婦だった。

 夫婦は心から愛し合い、困難も分かち合ってきたが、苦しい生活が続き、そのプレッシャーから夫は行き詰ってしまっていた。結婚生活も息が詰まるようになり、その女性はもう夫と離婚したい、という心の内をトゥーさんに打ち明けた。

 女性の話を聞いたトゥーさんは、女性に共感しつつ、悩みもした。夫婦の結婚生活がうまくいっていない原因は、あくまでも経済的なプレッシャーからだ。そこでトゥーさんはすぐには書類の作成に着手せず、女性を落ち着かせようと会話を続けた。女性が落ち着いた頃合いを見て、もうちょっと考えてみたら、とやんわりと依頼を断った。

 すると女性はがっかりした様子で、自分は読み書きができないのだと悲しそうに話した。女性は、トゥーさんが丁寧に書類を作成してくれると知っていたからこそ、自分にとってとても重要なこの書類の作成を助けて欲しかったのだと訴えた。

 女性の真摯な気持ちを前にして、トゥーさんは書類を作ることにした。しかし、この書類によって家族の幸せが壊れかねないのだから、夫に書類を手渡す前によく考えて、と念を押した。

 数日後、その女性が再びトゥーさんのもとを訪れた。そして、お礼の言葉と、家族の仲が良好になったという報告をトゥーさんに伝えたのだった。「不本意ながら、家族と結婚の問題の心理カウンセラーになってしまったんです」とトゥーさんは笑う。

 トゥーさんが手掛ける書類は1通2万~3万VND(約120~180円)で、内容が難しく、労力がかかる場合は5万VND(約300円)以上を受け取っている。

 トゥーさんは、ニャチャン市で最後のタイピストでもある。トゥーさんの家族は3世代にわたってニャチャン市でタイプライターを打ってきた。1960年代には母方の祖父が、その後は母親が、そして母親の後はトゥーさんがこの仕事を継いだ。

 トゥーさんの幼少期は、祖父と母親のタイピング店に鳴り響く、カタカタというタイプライターの音とともにあった。当時、店には毎日たくさんの依頼人がきて、母親だけでは手が足りないときはトゥーさんも手伝った。時折キーを打つ練習をし、仕事に慣れていった。

 依頼人のそれぞれの物語が母親の手で機械によって文字に起こされ、すらすらと白い紙に印字されていく。その様子はいつからか、トゥーさんの好奇心をかき立てるようになった。

 1988年、トゥーさんは母親から仕事を引き継いだ。トゥーさんは最初、書類を見た人に依頼人の言わんとすることを理解してもらうにはどうすればいいのだろうかと苦しんだ。そして、トゥーさんが書いた最初の書類が依頼人のもとに渡り、当局に提出された。

 トゥーさんの記憶によれば、1980~1990年ごろにタイプライターの文字起こしの仕事が発展し、当時は収入も安定していた。書類の作成だけでなく、物書きの依頼で詩や短編小説の文字起こしをすることもあった。時には、海外に住んでいる親戚宛ての手紙を頼まれることもあった。

 今や情報技術が発展し、ニャチャン市にもパソコンやプリンターを扱う店が次々と増えたが、それでも多くの人々がトゥーさんのもとを訪れている。

 依頼人によると、印刷屋に文字起こしを頼んでも、言葉は無味乾燥で、心の内をうまく表すことができないのだという。それに、料金もずっと高い。一方、トゥーさんは依頼人の話に耳を傾け、依頼人の状況を詳しく伝えてくれるため、信頼が厚いのだ。

 生活は決して楽ではなく、日に日に苦しくなっているが、トゥーさんはタイプライターの仕事を何とか続け、一家の大黒柱である夫を支えている。暑い日も同じところに座って依頼人の話に耳を傾けるトゥーさん。トゥーさんの仕事場の前にはいつも、誰でも利用できる「無料のお茶」の大きなボトルが置かれている。 

[Vietnamnet 08:04 29/06/2023, A]
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