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[特集]

「ありのままに生きる」片脚のダンサー、事故と絶望からの再起

2024/03/31 10:26 JST更新

(C) vietnamnet
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 東北部地方カオバン省出身のベー・ティ・バンさん(女性・36歳)は、2012年2月に事故に遭い、片脚を失った。事故当時はまだ24歳という若さで、人生を愛し、たくさんのプランや野望を抱き、熱意に満ちていたバンさんは突然、絶望の淵に立たされた。しかし、家族の存在、そして自身のエネルギーのおかげで再起することができた。

 事故から10年以上経ったが、当時を思い出すと今でも鼻の奥がツーンとするという。「私はあの日、ハノイ市ホアンキエム区の歯医者から帰宅する途中にトレーラーに轢かれ、意識を失ったんです。4日後、痛みで目が覚めた私は、右脚が切断されていることに気づきました。左脚も壊死していて、予後が良くないんだなと思いました。私はとんでもない恐怖とパニックに陥り、世界が崩壊していくように感じました」。

 そのとき、バンさんの耳に「死んではいけないよ」という父親の言葉が鳴り響いた。その言葉がバンさんを動かし、心をよみがえらせ、死の扉を乗り越えさせたのだった。そして、バンさんは残された左脚で「再起」した。

 24歳のころのバンさんは、他の同年代の女性たちと同じようにバイタリティとエネルギーに満ちあふれ、完璧で美しい青春を送りたいと思っていた。しかし、痛みは何の前触れもなくバンさんに襲い掛かった。

 事故の後、バンさんは自分自身と向き合うことすらできないほどに落ち込んでいた。バンさんは現在のこと、未来のこと、家族のこと、両親のこと、色々なことについて思い悩み、考え、苦しんだ。

 「事故後しばらくの間は、深い眠りにつくのが怖かったんです。目が覚めるたび、知らないうちに身体のどこかがなくなってしまっているんじゃないかと恐れていました。それに、自分自身のことも、完全じゃなくなった自分の身体も怖かった。そういったとき、まず考えるのは両親と家族のことでした。自分の存在が身内の負担になるんじゃないかとか、未来は真っ暗だとか、これからは生産性のあることが何もできなくなるとか、すべての夢も野望も捨てるしかないとか、色々なことを恐れていました」とバンさんは語る。

 入院してから21日後、バンさんは引き続き治療を受けるため、ハノイ市に部屋を借りたいと両親に申し出た。両親は、娘が1人でハノイ市に残っても大変だろうからと反対し、一緒に田舎に帰るよう言った。それでもバンさんは断固として田舎に帰ろうとはしなかった。

 「私はただ、ハノイ市に残って、誰にも負担をかけたくなかったんです。そのときの私は、自分の人生は自分のものだから、自分の人生には自分で責任を持たなければならないと思いました」とバンさんは振り返る。

 バンさんは自分に起こった出来事を受け入れ、もっと強く、エネルギッシュにならなければと毎日自分に言い聞かせ、自分自身の旅を続けた。

 「まず、新しい生活に慣れることから始めました。考えるのは簡単ですが、実際にやるとなるととても大変でした。それに、周りの人たちの言うことにも疲れてしまいました。片脚を失ったのに都会に残ってどうするんだ、外に出ても大変なんだから家にいなさいだとか、私みたいな女性は不幸だ、田舎に帰るのが一番だとか…。そういう言葉を聞いてたくさん泣きましたし、消えてしまいたいとすら思いました」。

 長く続いた葛藤の末、ネガティブ思考だったバンさんは、徐々に希望を取り戻していった。バンさんは、そのときに頼れるのは自分自身だけだと悟ったのだ。

 「自分自身を変えるために何かしようと決めました。2本脚だったらよかったのにと心を痛めることをやめて、今のありのままに生きようと思いました。欠点を隠すのではなく、欠点を利用して人生と向き合うことにしたんです。通りに出て、木製の松葉杖をついて初めて歩いたときのことをよく覚えています。たくさんの人が私を好奇の目で見ていましたが、私はそれを受け入れて、自信を持ってしっかりと歩きました」とバンさん。

 バンさんいわく、彼女の人生は、2014年に母親と一緒に屋上に上って日の出を見たときに変わり始めたという。輝く太陽の光を見て、バンさんは希望の光が差し込んできたように感じたのだ。バンさんは突然、踊り出したくなり、その光の中に浸った。

 そこでバンさんは、片脚しかない状態でも、ダンスをすればバランスが保ちやすくなることに気付いた。バンさんは身体にあざができるまで、そして痛みを感じなくなるまで、床の上で立ったり歩いたり這ったりする練習をした。だんだんとあざを気にすることもやめ、自分がやりたい動きをできるかどうかにだけ集中するようになった。

 ダンスはそう簡単なものではない。普通の人でも難しいのだから、片脚しかないバンさんにとってはなおさら難しい。それでも、たゆまぬ練習を経て、バンさんはステージに上がってダンスを披露し、多くの人々に感動を与えた。

 そして、努力が報われた。2019年、バンさんは身体に障がいを持つ女性のミスコンテストに出場し、自身が振り付けた片脚のダンスで「ミス三日月」に輝いたのだ。おそらくこれが、バンさんの人生で事故以来2回目の転機となった。

 バンさんはコンテストに出場することで、自分がネガティブな思考から抜け出し、コミュニティに溶け込み、自分と同じような状況にある人々にポジティブなパワーを伝えたいと思っていた。バンさん自身、これほど大きな賞を手にすることになるとは予想もしていなかった。そしてこれは、バンさんがより自信を持てるようになったターニングポイントにもなった。

 バンさんは、日々多くの人々と出会い、コミュニティに溶け込む機会ができたことで、自分自身が成長していっていることに気づいた。そして、そのポジティブな考えを自分と同じような状況にある人々に伝えていった。

 現在、バンさんは交通事故により恵まれない状況にある子供たちのための奨学金基金である「モッタイナイ」の大使を務めている。また、障がいを持つ人々のための様々なプロジェクトに携わっているほか、個人でも障がい者をサポートするプロジェクトをいくつも進めている。

 バンさんにとって、こうした活動は意義と愛に満ちた旅だ。活動を通じて、困難な状況にある人々とたくさん出会ってきた。障がいのせいで自信を失い、向上心を持てなくなっている人もいる。バンさんは、自分自身の経験を活かして、人生における愛とエネルギーを伝えるべく全力を尽くしている。

 「今でもずっと心に残っているのは、ビンフック省(北部紅河デルタ地方)から来たという少年に出会ったときのことです。彼は事故に遭って両脚の膝下を切断しました。彼は私に、どうしてそんなに自信を持つことができるのかとたずねました。その質問が、私の記憶に触れたんです。私は彼にこう答えました。『私は私らしく、私の人生を生きているからよ。私は自分の欠点も愛しているし、自分自身のことも愛しているの。自分の身体の欠点を受け入れ、他人の否定的な見方を気にしないでいられるようになれば、自信が生まれるから。両親のために、家族のために、そして自分のために生きるのよ。それが大事なことよ』」。

 その会話の後、少年と少年の母親は抱き合い、感極まって泣いていた。そしてその日、少年は少し自信が持てたようで、他の人たちとオープンに話せるようになっていたという。

 「私に新しい人生を与えてくれた、ターニングポイントに感謝しています。私はそれによって、考え方が変わりました。それは、自分自身がどうであるかが大切なのではなく、生きている間に最も美しく、最も意義のあることをできたかどうかが大切だということです」と、バンさんは話した。 

[Vietnamnet 05:30 08/03/2024, A]
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