VIETJO - ベトナムニュース 印刷する | ウィンドウを閉じる
[特集]

1945年9月に独立宣言をラジオで放送、ベトナムの声放送局の歴史

2025/08/31 10:04 JST更新

(C) znews
(C) znews
(C) znews
(C) znews
 ハノイ市のバックマイ送信所は、1945年9月に独立宣言を放送した場所であると同時に、「ベトナムの声放送局(VOV)」が誕生した場所であり、国家の80年間にわたるラジオ放送の旅の始まりの場所でもある。

 独立宣言の式典が行われる1週間ほど前、国家ラジオ放送局の設立という任務が3人の幹部に託された。しかしその時点で、彼らはラジオ局に何が必要かさえも知らず、機材も何もなかった。

 1945年9月1日、翌日に控えた独立宣言の式典を生放送できるかと尋ねられると、放送担当チームの技術者のグエン・クン氏は「やるだけやってみましょう」と答えた。

 まさにその「やってみる」の精神こそが、ハノイ市の空に初めて独立宣言の放送を響かせ、「ベトナムの声放送局」の歴史を開いた。それは後に、政府と国民をつなぎ、ベトナムの声を世界に届ける架け橋となっていった。

 ベトナムの声放送局の元編集長であるチャン・ラム氏によると、1945年8月、8月革命の熱気が高まる中、故ホー・チ・ミン主席は、当時内務相だったボー・グエン・ザップ氏と情報省に対し、「国家ラジオ放送局を何としても早急に設立せよ」と指示した。

 ホー主席の指示を受けて、8月22日にラム氏、チャン・キム・スエン氏、チュー・バン・ティック氏の3人が、このラジオ局の設立の任務を正式に託された。

 ホー主席は「9月2日に必ず放送せよ」という指示は与えず、ただ「革命を広めるためにラジオ局の設立を準備せよ」とだけ語った。

 ホー主席は指示の中で、ラジオ局の2つの重要な任務を明示した。

 まず、国内向けの任務として、ラジオは党と政府の方針と政策を最も迅速かつ広範囲に伝達し、国内外の情勢を適時報じるメディアとなり、政府と地域、国民をつなぐ架け橋となるということを挙げた。

 次に、国際向けの任務として、ラジオは国境を越えてベトナムの声を世界に届け、ベトナムのイメージを世界に発信し、ベトナムの革命に対して世界の人々から共感と支持を得るということを挙げた。

 しかし当時、この任務を託された3人はラジオ局に何が必要かさえも知らず、仮に知っていたとしても手元には機材も何もなかった。送信機もスタジオもなければ、技術者もアナウンサーもいなかった。

 式典まで残り1週間しかない。切羽詰まった彼らは、バックマイ無線局の小規模な信号送信所で送信機を管理していた技術者のクン氏を訪ねたのだった。

 バックマイ無線局は、もともと1912年にフランス人が建設した近代的な大型無線施設だ。かつてはハノイ・サイゴン・パリ間のモールス信号通信の中心地で、ハノイ市のファングーラオ通り4番地にあった信号受信センターとケーブルで接続されていた。

 政権を掌握した後は、国防省がバックマイ無線局と信号受信センターの全設備を管理するようになった。クン氏とズオン・クアン・チ氏、そしてバックマイ無線局の技術チームは、モールス信号送信機を改造して、ラジオ送信機を製作した。

 9月1日の夜、ラム氏が「明日、独立宣言の式典を生放送できるか」と尋ねたところ、クン氏は「やるだけやってみましょう」と答えた。

 9月2日、クン氏はラジオ送信機をディンレー通り4番地に運び、バーディン広場での集会の様子を仮設の裸線(絶縁されていない電線)で試験放送した。

 ホー主席が読み上げた独立宣言は、建物の屋根に設置したアンテナを通じてバーディン広場から空へと発信されたが、裸線だったために放送範囲は限られ、音質も良くなかった。それでも、一部の場所では耳を澄ませば聞き取ることができた。

 9月2日のこの試験放送を経て、チームは国家ラジオ放送局の立ち上げ準備をさらに加速した。それから間もなく、バックマイ無線局はバックマイ送信所となり、1945年9月7日に国家ラジオ放送局が正式に開局した。

 1945年9月7日午前11時30分、ベトナム語による最初の放送が行われた。「こちらはベトナムの声です。ベトナム民主共和国の首都、ハノイからお送りしています」というフレーズで始まり、BGMには音楽家のグエン・ディン・ティー氏が作曲した「ジエットファットシット(Diet Phat Xit=『ファシストを殲滅しよう』の意)」が流れていた。

 番組の中では、ベトナム民主共和国の建国を宣言するホー主席の独立宣言の全文が繰り返し放送された。独立宣言は、フランス語、英語・中国語にも翻訳された。

 ファム・バン・ドン首相は、書籍「ベトナムの声の半世紀」の序文にこう記している。「あの時間はたった90分間にすぎないが、永遠にベトナム人の記憶に刻まれることだろう」。

 バックマイ送信所はまた、1946年に全国民に抗戦を呼び掛ける特別番組を放送した場所でもある。ズオン・ベト・ティエン氏の書籍とベトナムの声放送局の歴史資料によれば、1946年12月19日正午、編集チームはカンベッタ通り(現在のチャンフンダオ通り)で作業していたところ、ダイラー通り128C番地に移動せよとの緊急かつ極秘の命令を受けた。

 その日の午後、国防相 兼 ベトナム国家軍総司令官のザップ氏が、全軍に向けて、攻撃開始時刻は12月19日20時との極秘命令を出した。これに加えて、ベトナムの声放送局が「国民の皆さん、ご注目ください!国民の皆さん、ご注目ください!全国抗戦開始です!」と放送すれば、それが前線部隊への攻撃開始の合図になる手はずだった。

 20時ちょうど、街の明かりが消え、ハノイ市に大砲の轟音が鳴り響いた。その日の放送を担当したアナウンサーのズオン・ティ・ガン氏はその瞬間をこう語る。

 「頭の中はごちゃごちゃ、心臓はバクバクしながら、放送のボタンを手で強く押しました。瞬時に落ち着きを取り戻し、力強く、はっきりと読み上げました。『国民の皆さん、ご注目ください!国民の皆さん、ご注目ください!ハノイ市に大砲の轟音が鳴り響きました。全国抗戦開始です!以下は国防省からの命令です。祖国が危機に瀕しています!戦いの時が来ました!』と」。

 放送直後、放送局の電気エリアが爆撃された。作業班はすぐに外へ避難し、車に飛び乗って、翌朝6時の放送に間に合うよう、ハノイ市郊外のチャム洞窟へ移動した。

 そして、翌日の12月20日、再びラジオでガン氏の声が響いた。「こちらはベトナムの声です。ベトナム民主共和国の首都、ハノイからお送りしています」。

 この放送で、全国民に抗戦を呼び掛けるホー主席の全国抗戦宣言が流れた。この放送は、民族の長期にわたる抗戦の中で、ベトナムの声放送局にとって忘れがたい節目となった。

 1945年9月2日の独立宣言の試験放送から、抗戦の時代を経て、ベトナムの声放送局は絶えず放送を続けてきた。これにより、ベトナムの声放送局は今もなお、政府と国民をつなぎ、ベトナムの声を世界に届ける架け橋となっている。 

[Znews 06:17 29/08/2025, A]
© Viet-jo.com 2002-2025 All Rights Reserved.


このサイトにおける情報やその他のデータは、あくまでも利用者の私的利用のみのために提供されているものであって、取引など商用目的のために提供されているものではありません。弊サイトは、こうした情報やデータの誤謬や遅延、或いは、こうした情報やデータに依拠してなされた如何なる行為についても、何らの責任も負うものではありません。

印刷する | ウィンドウを閉じる