[特集]
抗仏戦争の郵便配達員、地獄の10日間の記憶
2025/10/19 10:19 JST更新
) (C) VnExpress |
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電気ショック、水責め、足指潰しなどの拷問を10日間にわたり受け続け、体重が20kg減ったにもかかわらず、郵便配達員だったレ・バン・トゥーさんは一言も口を割らず、通信の「生命線」を守り抜いた。
トゥーさんは91歳になった今でも、抗仏戦争中の1953年12月6日、フランス植民地当局の刑務所(収容所)で残虐な拷問が始まった日のことを鮮明に覚えている。
18歳だったトゥーさんはその日、機密文書を届けた後、北部地方バクニン省チャウケー村ソンタップ村落の豚小屋の下にある隠し穴に身を潜めていた。しかし、密告により発見され、フランス軍の兵士に捕らえられた。
フランス兵たちはトゥーさんの衣服を剥ぎ取り、「ベトナム独立同盟会(ベトミン)に加担した」として、村落中を連れ回して見せしめにした。そして、村人の目の前で、トゥーさんの足の親指をハンマーで叩き潰し、鉄のナックルをつけた拳で顔を殴りつけ、歯を折った。
「バクニン省の郡共産党委員会はどこだ?責任者は誰だ?第529中隊はどこだ?」フランス兵は繰り返し尋問したが、トゥーさんは沈黙を貫いた。
何の情報も得られなかったため、フランス軍はトゥーさんをニャーティエン刑務所(現在のハノイ市のグエンタイホック通り175番地)に送った。ここは当時のフランス領インドシナで最も悪名高い刑務所の一つで、多くの革命幹部や革命兵士、政治犯が北部各地から収監され、残虐な拷問を受けていた。
トゥーさんはここで、1日3回の残虐極まりない拷問に耐えなければならなかった。
最初の拷問は「体罰」と呼ばれるものだった。看守と番兵は、鉄のナックルをつけた手で顔や腹、胸を何度も殴り、トゥーさんが気を失うまで続けた。
次は「水責め」だ。看守がトゥーさんの頭をバケツの水に押し込み、窒息する寸前で引き上げ、さらにトゥーさんの腹の上に木の板を置いて番兵が飛び乗り、水を吐かせた。
最後は「電気ショック」だ。一方の電極を鼻に、もう一方の電極を性器に取り付けられ、電流が流れるたびに全身がけいれんした。拷問のたびに尋問が繰り返された。
「奴らは自分が疲れるまで殴り続け、私は麺のようにぐったりしていました」とトゥーさんは振り返る。「口を割るくらいなら、死んだほうがましです」。
10日間のうちに、トゥーさんの体重は52kgから32kgまで減り、骨と皮だけになり、全身傷だらけだった。何の成果も得られなかったフランス軍は、トゥーさんを牢獄に放り込んだ。それから半年後の1954年6月、トゥーさんは脱獄に成功し、すぐにバクニン省郵便局に戻って任務を続けた。
「傷のことなど考えもしませんでした。ただホー・チ・ミン主席の言葉を覚えていたんです。『連絡は革命活動において最も重要なものであり、それが指揮の統一と兵力の配分を決定し、勝利を確実にするのだ』と。だから、何としても組織に戻らなければならなかったんです」とトゥーさんは語る。
捕らえられ、地獄のような拷問を受ける前から、トゥーさんは何度も死線をくぐり抜け、「通信の生命線」を絶やさぬよう奮闘してきた。
トゥーさんは4人きょうだいの3番目で、きょうだい全員が旧バクニン省のズックトゥー村(現在のハノイ市ドンアイン村)で抗仏戦争に参加した。
1951年に16歳で自ら志願して郵便部門に入ったトゥーさんは、すぐにこの仕事の重要性に気付いた。当時のバクニン省は、ハノイ市の北の玄関口であり、国道1A号線や鉄道を結ぶ交通の要衝でもあったため、フランス軍が北部全域を制圧するためにここに集まっていた。
「敵と戦うには、情報を伝達しなければなりません。当時は電話もなく、無線も原始的で、情報伝達はすべて人の手に頼るしかありませんでした」とトゥーさんは説明する。
当時のバクニン省郵便局には約400人が勤務しており、10郡への連絡を担当していた。短期の訓練を終えたトゥーさんは、毎回が命懸けの任務に就いた。
トゥーさんたち郵便配達員は、情報伝達という動脈の中を流れる赤血球のような存在だった。彼らは命令や文書を伝達し、後方と前線をつなぐ役割を担った。
彼らの任務は、敵の検問をくぐり抜けるだけでなく、爆弾と弾丸が飛び交う「火の座標」を越えることでもあった。危険度と犠牲の重さは、最前線の兵士と変わらなかった。
当時の郵便部門には、「前の者が倒れても、後の者は悲しみに耐えて突き進まなければならない」という不文律があった。「命令は絶対で、通信の生命線を断つなど決して許されません」とトゥーさんは語る。
毎回、出発のたびに地形を綿密に調べた。届ける距離が数kmのこともあれば、森を抜けて川を越えて40km以上の道のりを進まなければならないことも少なくなかった。
「私たち郵便配達員は、常に手榴弾を携え、機密文書を敵の手に渡すくらいなら命を絶つ覚悟でした。捕まってしまった場合は、文書を泥土に埋めて隠すのが鉄則でした」とトゥーさん。
抗仏戦争で郵便配達員を務めた4年の間、トゥーさんは幾多の戦闘をくぐり抜け、何度も死と隣り合わせになったが、「それでも、仲間たちに比べれば私はまだ幸運なほうでした」と静かに話す。
トゥーさんは、犠牲になった仲間たちを思い出す。1947年にホン川(紅河)で撃たれたザーラム郵便局長のグエン・バン・バウさん、カウ川の中洲で撃たれ、3日後に遺体が見つかった配達員のグエン・ティエン・アイさん、そして、バクニン省のトゥアンタイン郵便局の女性配達員のグエン・ティ・チュオックさんとサイ・ティ・ハンさん。チュオックさんとハンさんは、敵に撃たれた後、遺体を国道38号線の真ん中に晒された。
抗仏戦争中の9年間、トゥーさんとバクニン省郵便局の職員たちは、原始的な手段で、足だけを頼りにあらゆる危険を乗り越えて任務を全うした。全体で300人以上が捕らえられて投獄され、100人以上が犠牲となった。
トゥーさんは、戦争が終わった1954年以降も郵便部門で働き続けた。1975年の南部解放後には、ホーチミン市に4か月間派遣され、南部の郵便組織改革を支援した。
こうした功績により、トゥーさんは1961年に二等抗戦勲章、1988年に一等抗戦勲章、2002年に「敵に捕らわれ投獄された革命戦士記念章」を受章したほか、他にも多くの表彰を受けてきた。
「森を抜け、爆弾と弾丸の雨をくぐり抜けて通信を繋いだ私たちのような郵便配達員の時代を経て、ベトナムの郵便部門は、科学技術の画期的な応用により大きな進歩を遂げてきました。あのころの私たちの世代が夢見ることしかできなかった未来が今、現実になっているんです」とトゥーさんは語った。
[VnExpress 05:29 22/09/2025, A]
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