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[特集]

ハノイ郊外の2つのトンネル、軍幹部をかくまった地下要塞

2025/11/16 10:27 JST更新

(C) VnExpress、ナムホンのトンネル
(C) VnExpress、ナムホンのトンネル
(C) VnExpress、タムフンのトンネル
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 フランス軍との9年間におよぶ抗戦中、ハノイ市の旧ドンアイン郡ナムホン村(現在のフックティン村)と旧タインオアイ郡タムフン村(現在のタムフン村)の住民たちは、戦火から村を守り、また軍幹部をかくまいながら世話をするために、秘密裏にトンネル網を掘って「地下要塞」と呼ばれる防衛網を築き上げた。

 「当時はこの11kmのトンネルを掘るために、私を含め、村中の人々が道具を持って、3か月間掘り続けなければなりませんでした」と、ナムホン村に住むグエン・ティ・ライさん(女性・87歳)は語る。

 ライさんは歴史の生き証人であるだけでなく、80年近くにわたりトンネル網の保存と保護に尽力してきた人物でもある。広さ30m2ほどのライさんの自宅の中に、今日まで残るトンネルの2つの入り口のうちの1つがある。もう1つの入り口は、同じ村に住むファム・バン・ゾックさん(男性)の自宅の敷地内にある。

 旧ドンアイン郡は、中央機関の安全地帯だったが、多くの高官が活動していたナムホン村は、フランス軍にとって主要な標的となった。1947年1月には、「土地に残り、村を守る」という決意のもと、ナムホンゲリラ部隊が結成された。長期の抗戦に向けてトンネル網を建設するというアイデアは、当局と住民の一致団結により実行に移された。

 「若い男性は皆、戦地に行っていたので、トンネル堀りは主に40歳以上の女性たちが担いました。私たちはいくつものグループに分かれて、土を掘ったり、運んだりしました。1グループにつき1日に10m掘るのがノルマでした」とライさんは回想する。

 トンネルを掘る道具は、長さ40cmの柄の短い鍬とつるはしで、作業は極秘で行われた。掘り出した土は、すげの袋に入れたり風呂敷に包んだりして、敵に見つからないように川に捨てたり、庭の土に混ぜたりした。

 3か月後、ナムホン村のタンミー村落、ドアイ村落、ディア村落、ベ村落を通り、さらにバックホン村とグエンケー村につながる全長約11kmのトンネルが完成した。トンネルは魚の骨のような構造で、メインのトンネルから各家庭につながる支線のトンネルへと分岐し、465本の秘密のトンネルと、2600か所以上の塹壕が設けられた。

 残存するトンネルの2つの入り口のうち、1つはライさんの母屋のベッドの真下にある。入り口は木の板でふさぎ、上を竹と土で覆い、部屋の床と同じ高さにして、巧妙にカモフラージュされている。入り口はちょうど肩幅程度だが、奥に進むにつれて広くなり、高さは60cmほどで十分に移動できる。

 完成したトンネルでは、軍幹部の保護が最優先事項だった。警報が鳴ると、住民はトンネルではなく畑の防空壕に避難した。「住民は誰もトンネルには入りませんでした。トンネルは軍人のための場所であり、敵に発見されないようにするためのものですから」とライさんは話す。

 ナムホン村の住民たちは、命を懸けてトンネル網の秘密を守った。ライさんによると、フランス軍は疑いを持ってはいたものの、トンネルを見つけることはできなかった。敵は、住民を迫害し、拷問し、さらには見せしめに斬首したこともあったという。

 2人のゲリラ兵は、トンネルを出た途端に捉えられ、残忍な拷問を受けたにもかかわらず自白を拒否したため、最終的にライさんの自宅の庭で絞首刑に処せられた。「身内が殺されるのを見て、耐えられる人がいるでしょうか。それでも革命のために、誰もが歯を食いしばって耐えなければならなかったんです」とライさんは語る。

 1947年から1950年にかけて、フランス軍は略奪と爆撃を繰り返し、畑は荒廃した。住民は極度の飢えに苦しんでいたが、軍幹部に米を譲った。炊いた白米は、夜に兵士たちが取りに来られるよう、トンネルの入り口近くの竹藪に吊るした。

 ナムホン村のゲリラ兵と住民は、フランス軍と308回の戦闘を行い、244回の襲撃を受け、2000棟以上の家屋が焼失した。

 1996年1月、ナムホン村は「人民武装部隊の英雄」の称号を授与された。また、ナムホン村のトンネルは国家級歴史文化遺跡に指定され、現在も約200mが保存されている。

 ナムホン村から約40km離れたタムフン村にも、「地下要塞」が築かれた。当初、このトンネルは軍幹部をかくまい、食料を貯蔵するために使われていたが、後に敵の侵攻を阻止するための戦闘拠点となった。

 当時のゲリラ部隊の主要メンバーだったズオン・バン・ザンさん(男性・97歳)は、この村の重要性についてこう説明する。「タムフン村を守ることは、ハドン省(現在のハノイ市)の拠点への安全な回廊を守ることでもありました。タムフン村が落ちれば、敵はもっと広範囲に脅威を与える可能性があったので、我々は何としてもタムフン村を守らなければなりませんでした」。

 1948年から、タムフン村の軍と住民は、「1つの村に1つの要塞」という方針を実行した。トンネルを掘る前に、村全体が協力して地上に防衛網を構築し、村の周囲に生い茂る竹藪を組み合わせて、自然の壁を作り上げた。村につながる道は封鎖し、代わりに巧妙にカモフラージュされた無数の塹壕や銃座、落とし穴などを張り巡らせた。

 村全体が戦闘組織と化し、見張りや食事の準備、竹槍作り、杭の手入れ、トンネル掘りなど、敵の襲来を待ち受けて全員に役割が与えられた。

 ナムホン村とは異なり、タムフン村の土壌は砂利が混じった粘土で硬く、掘削は困難を極めた。道具も原始的で、柄の短い鍬やつるはし、シャベルしかなかった。軍と住民は6つのグループに分かれ、各村落を結ぶためトンネルを掘る任務を負った。トンネルの深さは地表から約1.2m、天井の高さは1.5~2mだった。

 「しゃがんだまま掘り続け、疲れたら交代しました。掘れば掘るほど熱中し、兵士たちが隠れられる場所を確保できるよう、一刻も早く完成させたい一心でした」とザンさんは当時を思い出して語る。

 敵にばれないよう、掘り出した土はかごやざるなどに入れ、夜に畑まで運んだ。「池に土を捨てるとすぐに見つかってしまうので、遠くの畑まで運んで、誰にもわからないようにごく薄く広げて隠したんです」とザンさんは話す。

 タムフン村のトンネルは、万が一敵が入って来ても、手榴弾の威力と敵の射撃角度を制限して被害を減らすために、真っすぐではなく曲がりくねっていた。数mごとに急な曲がり角があり、痩せた人がやっと通れるくらいの狭い「ボトルネック」のような区間もあった。

 この設計は、大柄なフランス兵を足止めし、ゲリラ兵が安全に退却する時間を稼ぐことを目的としていた。通気口は、シロアリの塚、土塁、あるいは各家庭の台所の入り口などに偽装し、台所から出る煙と空気が混ざり合うことで、敵に気づかれることはなかった。

 タムフン村の軍と住民は、1年余りをかけて、全長約8kmの竹垣、400本以上の秘密のトンネル、そして約5kmの地下通路を含む防衛網を築き上げた。

 この防衛網により、タムフン村は難攻不落の要塞、すなわち「ゲリラ戦の屋台骨」となった。自爆部隊は敵の陣地を奇襲するためにここから現れ、攻撃した後は跡形もなく姿を消すことができた。

 ザンさんによると、フランス軍が2~3日間村を占拠し、村人やゲリラ部隊がすぐ足元の地下で生活していることにも気づかず、地上を歩き回っているということもあったという。

 1949年9月19日の掃討作戦で、タムフンゲリラ部隊は、砲兵の支援を受けた約1000人のフランス兵を撃退した。この勝利をきっかけに、ハドン省共産党委員会は、省全体に「タムフン抗戦村」のこの模範的なモデルを学ぶよう指示した。

 多くの人々が、命を懸けてトンネル網の秘密を守った。こうしてタムフン村のトンネルは、北部が解放される日まで、一度も発見されることはなかった。

 1949年12月、リエンベト戦線はタムフン村を「勇敢なタムフン」と名付けた。そして1995年12月には、タムフン村は「人民武装部隊の英雄」の称号を授与された。

 伝説の地下トンネルを作った1人であるザンさんは、「ベトナム国民である限り、困難を恐れることはありません。人民の力こそが、歴史的勝利をもたらしたんです」と語った。 

[VnExpress 00:06 03/09/2025, A]
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