[特集]
ホーチミンの市場とともに生きる:バンコー市場
2025/11/23 10:28 JST更新
) (C) thanhnien |
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ホーチミン市のめまぐるしく変わりゆく街並みの中で、バンコー市場(cho Ban Co)は、記憶の断片のようにひっそりと存在している。商人たちは日々、市場で商売を続けている。まるで、1束の野菜が、1kgの玉ネギが、時の流れと街の魂を引き留めているかのように見える。
ホーチミン市旧3区(現在のバンコー街区)にあるバンコー市場は、古い路地に入り込み、青々とした野菜の屋台、湯気が上がるブン(米粉麺)の丼、そして聞き慣れた呼び声が混じり合っている。
30年以上もここにいる「お母さん」たちは、その働き者の両手で、野菜や玉ネギ、パクチーの山に心を込め、この市場の暮らしの息づかいを守ってきた。
まだ夜が明けきらないうちから、グエンティエントゥアット(Nguyen Thien Thuat)通り174番地の路地は、三輪バイクの音、天秤棒がぶつかり合う音、そして新鮮な野菜の匂いでにぎやかになる。
この空間の中で、ダン・ティ・マイ・アインさん(女性・51歳)はすでに、5m2にも満たない自分の野菜の屋台に立っている。アインさんは、タコだらけの手で、空芯菜、ネギ、小松菜を1束ずつ丁寧に並べていく。何十年も続く、彼女の日課だ。
「10歳のころから、母について市場に来ていたんです。幼いながらも、野菜を選別したり、量ったり、屋台を片づけたりと、母の手伝いをしていました。大人になって、気がついたらこの屋台が自分の店になっていたんです」と、アインさんはどこか寂しさを含んだ、親しみのある笑顔で話す。
「毎朝毎朝、1時や2時に起きて仕入れに行きます。外はまだ真っ暗なのに、古いバイクにまたがって野菜を取りに行き、開店に間に合うように帰ってきます」とアインさん。
アインさんによると、以前のバンコー市場は、売り手と買い手であふれ、人が押し合いへし合いながら商品を選び、台車がずらりと並んでいたという。アインさんは、「以前は山積みの野菜が1日で売り切れる日もあり、子どもたちの学費も十分に支払えて、少しは蓄えもできたんですよ」と、強い南部訛りで語る。
「今はお客さんがぐっと減って、まったく売れない日もあります。屋台の場所代を払うだけで精一杯で、残りのお金は天候が悪くなって野菜が不作になったときに供えて少しずつ貯めておかないといけません。年老いた母も小さな孫もいるし、夫はもう働けない年ですから」とアインさん。
この小さな野菜の屋台は、アインさんにとって生計を立てるためのものというだけでなく、人生そのものでもある。1束の野菜、1kgの玉ネギやパクチーには、苦しかった日々、忙しく立ち働いたテト(旧正月)の時期、そして雨の日も炎天下の日も家族の食べるものを心配した年月の記憶が詰まっている。
「市場をやめたら、きっと私は生きていけないでしょう。ここに来ない日があると、落ち着かなくて、何かが足りない気がするんです」。聞き慣れた呼び声と笑い声、そして朝日が差して徐々に明るくなっていく市場を見渡しながら、アインさんは語る。
アインさんの2人の子どもは、すでにある程度自立している。それでもアインさんは、引退は考えていない。「この仕事は、何十年も私と家族を養ってくれました。だから、自分に『まだ頑張らないと』と言い聞かせています。市場がある限り、私はここにいます」と話すアインさん。声を落としながらも、その目には静かな決意が宿っている。
今のバンコー市場は、昔とは違う。市場の周りにはコンビニエンスストアやスーパーマーケットが立ち並び、若者が市場に足を運ぶことも少なくなっている。「今どきの子は、急ぎで少しの野菜が要るような場合でもない限り、市場には来ません。あとはスーパーに行ったほうが便利ですから」とアインさんはため息をつく。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行期には、市場がまるで「息を止めた」かのような日々だった。売り手も買い手もほとんどおらず、かろうじて人の声が途切れ途切れに聞こえるだけだった。
アインさんは「新型コロナのときの市場は、本当に死んだみたいでした。商品はしおれ、人は借金を心配しながら家に閉じこもるだけ。今もまだ、あのときの借金を少しずつ返している人がたくさんいるんです」と、ゆっくりと話す。
それでもアインさんは、毎日市場に立つ。「私がまだこの市場にいるのは、学校に通っている孫たちのためです。家族の生活がこの野菜の屋台にかかっているから。それに、ここには『昔のサイゴン』の面影がまだ残っているような気がするんです。私がやめたら、市場の息づかいがまたひとつ消えてしまうでしょう」。
バンコー市場は100年以上の歴史を持ち、その名の通り「碁盤の目(バンコー=ban co)」のような配置で知られている。路地が入り組み、まるで迷路のような市場に足を踏み入れると、人々はひしめき合う屋台の中に、ここにしかない暮らしのリズムと記憶の空間を感じる。
この市場で乾物を売っているチャン・トゥー・ホンさん(女性・55歳)は、目に涙を浮かべながらこう語る。「売れない日は、店先でぼんやりしながら考えるんです。もし、いつか市場がなくなったら、子どもたちが幼かったころに野菜の束や母親の商売の声の中で育ったことをちゃんと覚えていてくれるかな、って」。
アインさんやホンさんのような商人にとって、市場は単に生計を立てる場ではない。市場は記憶の一部であり、地域コミュニティの息づかいそのものでもある。
「市場がなくなるということは、単に屋台がなくなるということではありません。何十年分もの記憶が消え、お互いを呼び合うあの慣れ親しんだ声も消え、街の魂がなくなるということなんです」と、ホンさんは声を詰まらせる。
客の少ない屋台のほうを見つめながら、アインさんはこう訴える。「多くのことは望みません。ただ、伝統的な市場が消えてしまわないように、たまには市場に足を運んで、少しの野菜や肉を買って、私たちみたいな商人を支えてほしい、それだけです。それが市場を守ることであり、この街の『魂』の一部を守ることでもあると思っています」。
バンコー市場
バンコー市場は、別名「バンコー路地市場(cho hem Ban Co)」とも呼ばれ、ホーチミン市バンコー街区(旧3区)グエンティエントゥアット通りの住宅区の中に位置する。
1970年代、路地で開かれていた自発的な露天商が徐々に発展し、碁盤の目のような配置の市場として形成された。安価な古着や豊富なストリートフードで有名で、主に地元の住民や学生、そして伝統的な市場の雰囲気を体験したい観光客に親しまれている。
市場は朝から夜まで営業しており、小規模ながらも活気がある。一方で、インフラは限られており、スーパーマーケットや電子商取引(eコマース=EC)との競争に直面している。
碁盤の目のような珍しい区画は、この市場の大きな特徴で、ホーチミン市でも最も古い伝統的な市場の1つとされる。
旧3区人民委員会の情報によると、かつて2回の抗戦中、バンコー地区には複数の革命機関の拠点が置かれた。この地区の地元住民と武装勢力は、南部の革命と祖国統一の勝利に重要な貢献をした。
当時のバンコー地区は、貧しい庶民が暮らすエリアで、約15haの面積に52本の路地が碁盤の目状に走り、家々が密集していた。この構造こそが、南部の革命戦士たちが身を隠し、活動するための拠点となる条件を作り出していたのだ。
[Thanh Nien 05:58 24/10/2025, A]
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