[特集]
ベトナム農業に革命を起こした農学博士の軌跡、日本とのつながり
2026/05/31 10:13 JST更新
) (C) tieudung |
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日本で最高学位を取得した最初の、そして最年少のベトナム人学者であるルオン・ディン・クア博士は、多くの水稲品種の「生みの親」であり、故ホー・チ・ミン主席の呼びかけに応えて帰国し、ベトナムの農業に貢献した。
クア博士がこの世を去って半世紀以上が過ぎた今でも、ズボンの裾を捲り上げて田んぼに入り、それぞれの稲の品種を熱心に研究するその姿は、ベトナムの科学における美しい象徴として語り継がれている。
現代のベトナム農業の歴史において、クア博士の名前は常に特別な敬意を持って語られる。クア博士は優秀な科学者であり、農業分野の先駆者であるだけでなく、愛国心の象徴であり、ベトナムの農民と田畑に献身的に尽くした人物でもある。
クア博士が残した高収量稲品種、先進的な農法、そして数多くの価値ある研究は、戦争と復興の時代における国の食料安全保障の確保に大きく貢献した。そのため、何世代にもわたる農民たちは親愛の情を込めてクア博士を「田畑の学者」と呼んだ。
日本で農学博士号を取得した最年少のベトナム人
クア博士は1920年8月16日、旧ソクチャン省(現在の南部メコンデルタ地方カントー市)の愛国心あふれる知識人の家庭に生まれた。
幼い頃から、クア博士は賢く勉強熱心なことで有名だった。旧ソクチャン省で小学校を卒業した後、サイゴン(現在のホーチミン市)に移って中等教育を受け、すぐさま優秀な生徒となった。17歳でバカロレア(高校卒業資格)試験に合格したが、これは当時としては稀有な快挙だった。
クア博士の学問の道は多くの転機を経験した。当初、香港に渡って医学を学び、その後上海に移って経済学を学んだ。しかし、戦争と歴史的な激動がクア博士を日本へと導き、そこでクア博士の人生は一変することになった。
多くのベトナムの愛国者たちの助言に従い、科学的知識を持ち帰って祖国に奉仕したいという思いから、クア博士は農業の道を追求することを決意した。
クア博士は、日本の九州大学ですぐに卓越した能力を発揮した。実験生物学科に入学してわずか1年後には、特例で3年生への飛び級が認められた。
1951年、クア博士は新しい稲の品種を作り出すための倍数体処理に関する研究をテーマにした遺伝学の学位論文を提出し、優秀な成績で審査に合格した。この研究は日本の科学界からも大いに評価された。
その後、クア博士は京都大学で農学博士の学位を取得したが、これは当時の日本の農学分野における最高学位だった。クア博士は、その時点でこの名誉ある学位を取得した最年少の人物、かつ唯一の外国人となった。
それだけでなく、ジャポニカ米とインディカ米の交配に関するクア博士の研究は、米国での品種改良の取り組みにも応用された。これにより、クア博士は世界の作物生物学および作物遺伝学の研究における先駆者となった。
1945年、クア博士は日本人の中村信子さんと結婚した。信子さんは夫を深く愛し、献身的に尽くす女性だった。
日本で科学者としてのキャリアが大きく開かれようとしていた時でも、クア博士は常に祖国への切実な思いを抱いていた。1945年8月の総蜂起「8月革命(カックマンタンタム=Cach mang Thang Tam)」の後、国が独立を勝ち取ったという知らせを聞き、クア博士は民族のために貢献しようと帰国の意志を固めた。
1952年、故ホー・チ・ミン主席の呼びかけに応え、クア博士は妻子とともに日本を離れてベトナムに帰国することを決め、多くの貴重な稲の品種と、ベトナム農業への熱意のすべてを持ち帰った。
それは決して簡単な選択ではなかった。当時、クア博士は日本の科学界で高い地位にあり、未来は大きく開かれていた。しかし、クア博士にとって、祖国への愛は常にいかなる物質的な条件よりも大きかった。
戦時中のベトナムに帰国したクア博士は、農林調査研究所、農業大学、農業科学研究所など多くの農業研究・教育機関に勤務し、その後、食用作物・穀物研究所の所長に就任した。
科学者であるだけでなく、クア博士は国の農業分野における有力な人材を育成する教育者でもあった。
ベトナムの稲作界に「革命」をもたらした人物
クア博士の名前は、作物の品種改良分野における数々の大きな功績とも結びついている。
クア博士は、ベトナム初のハイブリッド米である「ノンギエップ(農業)1号」の交配に成功した。この品種はベトナム南部原産の品種に日本の品種を掛け合わせたもので、この成果はベトナム国内の稲の品種改良分野に大きな転機をもたらした。
さらに、クア博士は「チエム314」や「NN75-1」、「NN8-388」などの多くの高収量稲品種や、晩生種の研究にも成功した。
稲にとどまらず、クア博士は種なしスイカ、サツマイモ、空芯菜、ハネデューメロン、パパイヤなど、多くの作物の品種を交配・改良し、困難な時期の人々の生活向上に貢献した。
多くの人がクア博士に敬服するのは、その知能だけでなく、農民と実際につながる精神にもあった。教授であり、研究所の所長であり、さらには国会議員でありながら、クア博士はしばしばズボンの裾を捲り上げて田んぼに入り、それぞれの実験用の稲の区画を自ら観察していた。
クア博士はまた、ベトナムの農業生産に大きな変化をもたらした数々の先進的な農法を提唱した。これらの方法は、種子の節約、収量の増加、病害虫の減少に役立ち、すぐに全国で広く適用されるようになった。
その親しみやすさから、農民たちはクア博士が研究した作物の品種を「クアさんの稲」、「クアさんのスイカ」、「クアさんのサツマイモ」などといった愛称で呼んだ。
1975年12月28日、クア博士は多くの未完成の研究を残したまま、55歳の若さで突然この世を去った。クア博士の死は、ベトナムの農業科学界にとっても大きな損失だった。
しかし、クア博士が残した遺産は今日に至るまでその価値を保ち続けている。クア博士が開発した作物の品種、農法、そして実践に結びついた科学的思考は、今もなおベトナムの農業発展の基盤となっている。
その多大な貢献により、クア博士は党と国家から、労働英雄の称号、1等労働勲章、科学技術分野のホー・チ・ミン賞など、数多くの栄誉ある賞を授与された。
2006年、ホーチミン共産青年同盟(青年団)中央執行委員会は、労働、生産、新しい農村の建設において優れた功績をあげた農村の青年を称えるため、「ルオン・ディン・クア賞」を創設した。
また、クア博士の名前は、全国各地の多くの学校や道路にも付けられている。
さらに2020年には、クア博士の故郷である旧ソクチャン省が、4月30日公園にクア博士の記念碑を建立した。
クア博士の生涯と功績は、ベトナム農業の新たな姿の形成に貢献しただけでなく、今日、そして未来のベトナムの知識人たちのインスピレーションの源となっている。
[Tieu Dung & Suc Khoe 10:21 12/05/2026, A]
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