そしてその感情は、ミンさんの戦場での生死にかかわる体験を聞いたことで、共に生きるという揺るぎない決意に変わった。
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1977年8月、ミンさんは入隊し、ベトナムとカンボジアの国境での戦いに参加した。1980年の初め、カンボジアのプノンチャットにおけるクメール・ルージュの掃討作戦中、ミンさんのいた地下壕が砲撃を受け、生き埋めになった。地下壕にいた兵士6人のうち5人が犠牲となり、ミンさんだけが、素手で土砂をかき分けて助けを呼び、生き延びた。
障害度21%で後方に移送されたミンさんは、戦友たちの死を目の当たりにしてパニック状態に陥った。1981年6月2日に除隊したものの、戦争の後遺症により病状は徐々に悪化していった。障害度は1987年に61%、1997年には81%にまで上昇した。妄想症を患い、頻繁に物を壊すようになり、当時の近所の人々は彼のことを「狂人」呼ばわりした。
傷病兵との結婚を決めたトゥエットさんに対し、友人や実の兄弟姉妹からは猛烈な反対の声が上がった。「精神を病んだ人と結婚するなんて、あんた、どうかしちゃったの?自分から泥沼にはまろうっていうの?」トゥエットさんはこうした言葉を何度となく耳にした。
それでも、トゥエットさんの実の両親は、娘の決断を応援してくれた。「国の平和のために血を流した人は、愛されて当然なんだ」という、当時、村の共産党委員会書記を務めていた父親の言葉が、トゥエットさんに力を与えた。
2000年7月20日、トゥエットさんは傷病兵であるミンさんと自らの意思で結婚することを記した誓約書を作成し、フンタイ村人民委員会と療養所の指導部に提出した。同月末、療養所の支援のもと、2人は結婚式を挙げた。
夫を迎え、高齢の母親と同居し始めると、トゥエットさんは多くの陰口に直面した。世間は彼女がミンさんの実家の財産を狙っていると噂したり、彼女が未婚で妊娠したから障害のある男性と結婚したのではないかと中傷したりした。こうした悪意のある噂に対して、トゥエットさんは沈黙を守り続けた。
結婚して以来、トゥエットさんは幼稚園教諭としての給料で家族を支える大黒柱となった。妻の苦労を思いやり、ミンさんは、症状が落ち着いている時には路地の入り口に出て自転車のタイヤに空気を入れる仕事をし、家計の足しにした。
精神状態が不安定でも、ミンさんは妻への愛情を惜しみなく注いだ。毎朝、妻が仕事に出かける前に自転車のタイヤを点検し、彼女の額にキスをした。夕方になると、路地の入り口で妻の帰りを待ちわびた。美味しい食べ物があれば、必ず妻のために残しておいた。







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