電気ショック、水責め、足指潰しなどの拷問を10日間にわたり受け続け、体重が20kg減ったにもかかわらず、郵便配達員だったレ・バン・トゥーさんは一言も口を割らず、通信の「生命線」を守り抜いた。
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トゥーさんは91歳になった今でも、抗仏戦争中の1953年12月6日、フランス植民地当局の刑務所(収容所)で残虐な拷問が始まった日のことを鮮明に覚えている。
18歳だったトゥーさんはその日、機密文書を届けた後、北部地方バクニン省チャウケー村ソンタップ村落の豚小屋の下にある隠し穴に身を潜めていた。しかし、密告により発見され、フランス軍の兵士に捕らえられた。
フランス兵たちはトゥーさんの衣服を剥ぎ取り、「ベトナム独立同盟会(ベトミン)に加担した」として、村落中を連れ回して見せしめにした。そして、村人の目の前で、トゥーさんの足の親指をハンマーで叩き潰し、鉄のナックルをつけた拳で顔を殴りつけ、歯を折った。
「バクニン省の郡共産党委員会はどこだ?責任者は誰だ?第529中隊はどこだ?」フランス兵は繰り返し尋問したが、トゥーさんは沈黙を貫いた。
何の情報も得られなかったため、フランス軍はトゥーさんをニャーティエン刑務所(現在のハノイ市のグエンタイホック通り175番地)に送った。ここは当時のフランス領インドシナで最も悪名高い刑務所の一つで、多くの革命幹部や革命兵士、政治犯が北部各地から収監され、残虐な拷問を受けていた。
トゥーさんはここで、1日3回の残虐極まりない拷問に耐えなければならなかった。
最初の拷問は「体罰」と呼ばれるものだった。看守と番兵は、鉄のナックルをつけた手で顔や腹、胸を何度も殴り、トゥーさんが気を失うまで続けた。
次は「水責め」だ。看守がトゥーさんの頭をバケツの水に押し込み、窒息する寸前で引き上げ、さらにトゥーさんの腹の上に木の板を置いて番兵が飛び乗り、水を吐かせた。
最後は「電気ショック」だ。一方の電極を鼻に、もう一方の電極を性器に取り付けられ、電流が流れるたびに全身がけいれんした。拷問のたびに尋問が繰り返された。
「奴らは自分が疲れるまで殴り続け、私は麺のようにぐったりしていました」とトゥーさんは振り返る。「口を割るくらいなら、死んだほうがましです」。