その後、クア博士は京都大学で農学博士の学位を取得したが、これは当時の日本の農学分野における最高学位だった。クア博士は、その時点でこの名誉ある学位を取得した最年少の人物、かつ唯一の外国人となった。
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それだけでなく、ジャポニカ米とインディカ米の交配に関するクア博士の研究は、米国での品種改良の取り組みにも応用された。これにより、クア博士は世界の作物生物学および作物遺伝学の研究における先駆者となった。
1945年、クア博士は日本人の中村信子さんと結婚した。信子さんは夫を深く愛し、献身的に尽くす女性だった。
日本で科学者としてのキャリアが大きく開かれようとしていた時でも、クア博士は常に祖国への切実な思いを抱いていた。1945年8月の総蜂起「8月革命(カックマンタンタム=Cach mang Thang Tam)」の後、国が独立を勝ち取ったという知らせを聞き、クア博士は民族のために貢献しようと帰国の意志を固めた。
1952年、故ホー・チ・ミン主席の呼びかけに応え、クア博士は妻子とともに日本を離れてベトナムに帰国することを決め、多くの貴重な稲の品種と、ベトナム農業への熱意のすべてを持ち帰った。
それは決して簡単な選択ではなかった。当時、クア博士は日本の科学界で高い地位にあり、未来は大きく開かれていた。しかし、クア博士にとって、祖国への愛は常にいかなる物質的な条件よりも大きかった。
戦時中のベトナムに帰国したクア博士は、農林調査研究所、農業大学、農業科学研究所など多くの農業研究・教育機関に勤務し、その後、食用作物・穀物研究所の所長に就任した。
科学者であるだけでなく、クア博士は国の農業分野における有力な人材を育成する教育者でもあった。
ベトナムの稲作界に「革命」をもたらした人物
クア博士の名前は、作物の品種改良分野における数々の大きな功績とも結びついている。
クア博士は、ベトナム初のハイブリッド米である「ノンギエップ(農業)1号」の交配に成功した。この品種はベトナム南部原産の品種に日本の品種を掛け合わせたもので、この成果はベトナム国内の稲の品種改良分野に大きな転機をもたらした。
さらに、クア博士は「チエム314」や「NN75-1」、「NN8-388」などの多くの高収量稲品種や、晩生種の研究にも成功した。





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