(C) VnExpress、ナムホンのトンネル |
「しゃがんだまま掘り続け、疲れたら交代しました。掘れば掘るほど熱中し、兵士たちが隠れられる場所を確保できるよう、一刻も早く完成させたい一心でした」とザンさんは当時を思い出して語る。
敵にばれないよう、掘り出した土はかごやざるなどに入れ、夜に畑まで運んだ。「池に土を捨てるとすぐに見つかってしまうので、遠くの畑まで運んで、誰にもわからないようにごく薄く広げて隠したんです」とザンさんは話す。
タムフン村のトンネルは、万が一敵が入って来ても、手榴弾の威力と敵の射撃角度を制限して被害を減らすために、真っすぐではなく曲がりくねっていた。数mごとに急な曲がり角があり、痩せた人がやっと通れるくらいの狭い「ボトルネック」のような区間もあった。
この設計は、大柄なフランス兵を足止めし、ゲリラ兵が安全に退却する時間を稼ぐことを目的としていた。通気口は、シロアリの塚、土塁、あるいは各家庭の台所の入り口などに偽装し、台所から出る煙と空気が混ざり合うことで、敵に気づかれることはなかった。
タムフン村の軍と住民は、1年余りをかけて、全長約8kmの竹垣、400本以上の秘密のトンネル、そして約5kmの地下通路を含む防衛網を築き上げた。
この防衛網により、タムフン村は難攻不落の要塞、すなわち「ゲリラ戦の屋台骨」となった。自爆部隊は敵の陣地を奇襲するためにここから現れ、攻撃した後は跡形もなく姿を消すことができた。
ザンさんによると、フランス軍が2~3日間村を占拠し、村人やゲリラ部隊がすぐ足元の地下で生活していることにも気づかず、地上を歩き回っているということもあったという。
1949年9月19日の掃討作戦で、タムフンゲリラ部隊は、砲兵の支援を受けた約1000人のフランス兵を撃退した。この勝利をきっかけに、ハドン省共産党委員会は、省全体に「タムフン抗戦村」のこの模範的なモデルを学ぶよう指示した。
多くの人々が、命を懸けてトンネル網の秘密を守った。こうしてタムフン村のトンネルは、北部が解放される日まで、一度も発見されることはなかった。
1949年12月、リエンベト戦線はタムフン村を「勇敢なタムフン」と名付けた。そして1995年12月には、タムフン村は「人民武装部隊の英雄」の称号を授与された。
伝説の地下トンネルを作った1人であるザンさんは、「ベトナム国民である限り、困難を恐れることはありません。人民の力こそが、歴史的勝利をもたらしたんです」と語った。

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