![]() (C) VnExpress |
医師のレ・タイン・ドーさん(男性・81歳)は、過去21年間にわたり、集合住宅にある自宅を工房に改装し、1600本以上の義手や義足を製作して傷病兵や障がい者に無償で提供し、社会復帰を支援してきた。
ある日の午前、ハノイ市トゥオンマイ街区(旧ハイバーチュン区)ゴックデー路地にある自宅で、ドーさんは東北部地方トゥエンクアン省(旧ハザン省)で労働災害により片脚を失った患者の書類を丁寧に確認していた。
この患者は2日後にドーさんのもとを訪れる予定だ。支援団体の審査に間に合うよう、個人情報や傷病の状況などのすべての情報を事前に送付してもらった。
ドーさんによると、遠方に住み、なおかつ経済的に厳しい状況にある患者が多いため、交通費を節約する目的で、可能な限り手順を簡略化している。患者が工房を訪れるのは、診察・採寸を行う初回と、装着・仕上げを行う2回目の計2回だけで済むという。
医科評議会を退いてから20年以上が経ち、傷病兵でもあるドーさんは、無料の義肢装具工房を休むことなく続けている。自らも砲火をくぐり抜けてきたからこそ、身体の一部を失う苦しみを深く理解している。
「戦争を経験した者として、微力ながらも、戦友や弱者の方々が自らの足で再び歩けるよう手助けしたいと切に願っています」とドーさんは語る。
1963年、ハノイ市で高校卒業を控えていたドーさんは、学業を中断して入隊した。第304師団第57連隊第19中隊に配属され、北中部地方タインホア省のホンメー(Hòn Mê)島に駐屯した。
1965年に米国が北ベトナムへの攻撃を本格化すると、タインホア省の重要な交通路だったハムロン橋周辺エリアへと移動し、爆弾や地雷を処理する任務を命じられた。
工兵の任務には、勇敢さと鋭い洞察力、そして絶対的な正確さが求められた。敵機が爆撃を行うたび、兵士たちは投下された爆弾の数を正確に数え、爆発したものと不発弾を見分け、不発弾を処理しなければならなかった。見落としがあれば、仲間への甚大な被害につながる。
1966年、ハムロンエリアでの突然の空襲により、爆弾の破片がドーさんの身体に突き刺さった。北部紅河デルタ地方ニンビン省からハノイ市にかけて3か所の病院で治療を受け、一命を取り留めたものの、身体機能の61%を失い、除隊を余儀なくされた。

から



)
)
)
)
)

)

)

)
)
)
)
)
)
)
)
)
)
)
)
)
)
)











