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10日間のうちに、トゥーさんの体重は52kgから32kgまで減り、骨と皮だけになり、全身傷だらけだった。何の成果も得られなかったフランス軍は、トゥーさんを牢獄に放り込んだ。それから半年後の1954年6月、トゥーさんは脱獄に成功し、すぐにバクニン省郵便局に戻って任務を続けた。
「傷のことなど考えもしませんでした。ただホー・チ・ミン主席の言葉を覚えていたんです。『連絡は革命活動において最も重要なものであり、それが指揮の統一と兵力の配分を決定し、勝利を確実にするのだ』と。だから、何としても組織に戻らなければならなかったんです」とトゥーさんは語る。
捕らえられ、地獄のような拷問を受ける前から、トゥーさんは何度も死線をくぐり抜け、「通信の生命線」を絶やさぬよう奮闘してきた。
トゥーさんは4人きょうだいの3番目で、きょうだい全員が旧バクニン省のズックトゥー村(現在のハノイ市ドンアイン村)で抗仏戦争に参加した。
1951年に16歳で自ら志願して郵便部門に入ったトゥーさんは、すぐにこの仕事の重要性に気付いた。当時のバクニン省は、ハノイ市の北の玄関口であり、国道1A号線や鉄道を結ぶ交通の要衝でもあったため、フランス軍が北部全域を制圧するためにここに集まっていた。
「敵と戦うには、情報を伝達しなければなりません。当時は電話もなく、無線も原始的で、情報伝達はすべて人の手に頼るしかありませんでした」とトゥーさんは説明する。
当時のバクニン省郵便局には約400人が勤務しており、10郡への連絡を担当していた。短期の訓練を終えたトゥーさんは、毎回が命懸けの任務に就いた。
トゥーさんたち郵便配達員は、情報伝達という動脈の中を流れる赤血球のような存在だった。彼らは命令や文書を伝達し、後方と前線をつなぐ役割を担った。
彼らの任務は、敵の検問をくぐり抜けるだけでなく、爆弾と弾丸が飛び交う「火の座標」を越えることでもあった。危険度と犠牲の重さは、最前線の兵士と変わらなかった。
当時の郵便部門には、「前の者が倒れても、後の者は悲しみに耐えて突き進まなければならない」という不文律があった。「命令は絶対で、通信の生命線を断つなど決して許されません」とトゥーさんは語る。